2011/12/27

風評被害とメディアの社会的責任

最近、メディアによる風評被害とか、「メディア・リテラシー」といった言葉をよく耳にする。

私が持っている1年生向けの演習授業では、ステレオタイプではない複眼的な思考法を
身に付けてもらうために、学生各自で簡単なテーマを設定し議論をして、それをフィードバック
させた上で学期末にレポートを提出してもらうようにしているが、そのせいもあるのか、今年は
思いのほか、「インターネットの利便性と罠」とか、「テレビの役割再考」とか、「メディアの功罪」
といったメディア絡みのテーマを取り上げる学生が多いのが目立つ。

メディアとは、人々に世の中の動向を伝えたり、多くの人々はどのように考えているのかという
一般的な見解を伝える役割を果たす媒体である。このように、メディアは世間に正しい情報を
瞬時に伝えるという役割や責任を負っている反面、その報道が果たしてどこまで正しいのか、
またその報道の仕方については常に問題視もされてきた。

このように、メディア報道のあり方についての批判は必ずしも今に始まったことではないが、
今回、そうしたメディア報道のあり方を大きく再考するきっかけとなったのが、皮肉にも東日本
大震災や福島原発での放射能漏れという出来事であった。これによって、マスコミやメディア
報道による風評被害というものがあらためてクローズアップされるようになったように思う。

「風評被害」とは、けっして間違った情報を流しているわけではないのだけれど、ある一面だけ、
あるいは報道する側に都合がよいと判断された部分だけがクローズアップされて報道されて
しまうことにより、そうした報道をされた側が必要以上のダメージを受けてしまうこと。
つまり、情報がもたらす「二次被害」のことである。

福島原発による放射能漏れのニュースが過大に報道されることによって、福島出身の
子供たちが他地域の転校先の学校でいじめの対象になったり、福島県産の農産物が
売れなくなったり、海外で福島の知名度が必ずしも正しくない方向で広がったり、
さらには北海道・東北・関東など東日本で外国からの人の流れが大幅に減少したり
などといったことが生じたことは、あらためて強調するまでもないだろう。

こうした東日本大震災絡みのニュースだけでなく、私も常日頃テレビを見ていて思うのは、
ちょっとしたニュースや天気予報なんかでも、報じる側に共有されている認識や、
「中央」の人の一方的な思い込みでもってニュースが報じられてしまう傾向がしばしばある
ことである。ほんとにどうにかならないものかと思う時もあり、これこそが、まさにメディアの
功罪である。さらに問題なのは、そうしたメディアによって報じられた必ずしも正しくない
メッセージが最も支配的な見解として世間に流布し、「メディア・リテラシー」が十分でない
子どもやそうした大人たちに、ある種のステレオタイプ的な見解やイメージを植えつける
ことになってしまっている点である。

たとえば、「中央」のテレビ局によって全国に報じられる北海道に関する報道は、なぜか
「雪」とか、「寒い」とか、「気温が低い」といった点ばかりが強調される傾向にある。これは、
おそらくアナウンサーや報じる側が持っているそうした内在化された「まなざし」が無意識の
うちに出てしまっていることが、そうした報じ方に繋がってしまっていると思われるのだが、
それによって、聴衆には「ま~、北海道ってたいへん」「寒くて重くて暗そう」といったあまり
よくない側面でのイメージ形成に繋がってしまいかねない。

しかし、北海道と一言でいっても、九州や、海外で言うと台湾より広い面積をもつ地域である。
ゆえに、そうした「中央」発のメディアが報じる北海道のイメージなんて、いってみればごく
一部でしかない。しかし、それがあたかも北海道全体がそうであるかのように語られてしまう。
もし日本の天気予報が、ニューヨーク発であったり、ロンドン発でなされるものであるとすれば、
そこまで北海道が「気温が低い」とか「寒い」というイメージで報じられることはないだろう。
見方を変えれば、北米やヨーロッパからみたら、東京よりもむしろ北海道の方がヨーロッパや
北米と気候風土や街並みが似通っていることもあって、そうした意味においては、北海道の
方が世界の先進国標準に近いといえるのかもしれない。

似たようなことは日本の他の地方に対しても同様にいえることである。私の友人に
大阪出身の人がいるが、その友人は、「関東経由のメディアは、大阪というと、いつも
決まって道頓堀だとか千日前だとかコテコテの大阪イメージのところばかり報じる。
けれど、大阪にだって、東京に負けないくらいおしゃれなスポットはいっぱいあるし、
上品なところだってある。けれど、関東のメディアはなぜかそういう『おしゃれな大阪』は
報じたがらないんだよね。最近じゃ、海外でも大阪=やくざの街とかってガイドブックなんかに
載っているらしいし。逆に、関東の人たちは、神戸に対してはおしゃれイメージがあるようで、
若い女性が読むようなファッション雑誌はみな東京・横浜か神戸なんだよね。横浜なんかは
『エキゾチックな港町』というキャッチフレーズで語られて、多くの人たちもそうしたイメージを
持っているけれど、あそこには日本三大ドヤ街のひとつといわれるエリアもあるからね。
上手いイメージ戦略や」と語っていた。その友人は、「このところの関西の地盤沈下は
こんなところにも一因があると思われるから、私は東京なんか大嫌いだ」と強調していた
ことを思い出す。

(これと逆のケースは沖縄である。ご存知の方も多いと思うが、90年代に入るくらいまでは、
多くの日本人にとって沖縄のイメージは決して明るいものではなく、他のアジアの国々に
対してと同じように、どちらかといえばあまり肯定的なものではなかった。ところが、90年
前後を境に、「中央」発のメディアの報じる沖縄イメージがガラリと180度転換し、明るい
ポジティブなイメージに変わった。今では、東京に出てきて沖縄出身というと羨ましがられて
脚光を浴びるらしく、昔は差別と偏見の対象であったのとは大違いである。
これも、メディアの沖縄に対する報じ方が大きく変わったことが最も強く関係していると
思われるし、実際、「沖縄移住ブーム」なるものも、こうしたメディア経由によって促進された
部分も大きい。)

このようにみると、日本の地域や都市のイメージは、日本国の首都である東京つまり
「中央」の発するメディアによって必ずしも正しくない画一的なイメージを植え付けられて
しまっているといえる。しかも、単にそうしたイメージ形成だけにとどまるのならともかく、
それが実際、経済活動や産業の活性化、ひいては人口の流出入にも影響を与えるようにも
なっている。こうした点は、とくに地方の場合、直に地域の活性化や衰退にかかわってくる
のだから、メディアの功罪はたいへんに大きい。

したがって、各テレビ局や新聞社などメディアは、今回の東日本大震災や福島原発の件で
クローズアップされた風評被害を契機に、あらためてそうした社会的責任を世間に対して
負っているのだという自覚をもって、番組の制作やニュース報道にあたっていただきたいと
思うものである。

2011/12/05

かわいいな、この猫

またまた猫の話だが、youtubeでとってもかわいい猫をみつけた。
その名は、「歳三」。
名前から来るイメージとはちょっと異なるけれど、とにかくかわいい。
かわいいにも程がある!けっこう大きいけれど、でも大きくなっても
こんなにかわいいだなんて、飼い主さんは大当たりだな。
なかなかの美猫。





猫の好きな人は結構多い。
最近は、全国いたるところに「ネコカフェ」なるものができていて、
けっこう繁盛していると聞く。「ネコカフェ」は、イメージ的にはなんとなく女性が
多そうな印象があるが、男性も少なくないとか。

最近、家族社会学なんかでは「ペットは家族か?」なんて議論があるらしい。
たしかに、自分の友人でも、数年前、年賀状の夫婦の名前の後に
一見子どもの名前かと思われる名前があって、「あれっ、この夫婦って子どもが
いないはずだがおかしいな」と思ったことがある。そこであらためてその友人に
尋ねてみたら、なんとそれが猫の名前だと分かって、思わず微笑んだ記憶がある。

私の猫好きはこうした議論とは無関係なところからきているのだが、
少子化が進んで子どもの数が少なくなったり、都市部での単身者が増えたり、
さらに世の中が「個人化」したり世知辛くなったりして、人との「繋がり」や「絆」の
大切さがあらためて求められたり見直されるようになればなるほど、おそらく
こうした議論がよけいに前面に出てくることになるんだろうなというような
気がする。そして、そんななかでの一種の「安らぎ」をペットに求めるという
構図が出てきたりもするのだろう。