2012/10/06

大学生になっても保護者懇談会だなんて

最近、多忙な状態が続いていたため、約3ヶ月ぶりのブログ更新。

日本の大学の中等教育化がいわれて久しい。たとえば、学生の相対的な質の低下を直視し、
高校で扱うような内容の補習的な授業科目を設置するなど、「リメディアル教育」を導入する
大学が増えていることはもちろんだが、大学と学生との関係も、高校の延長線上のような
感じが出てきていると感じるのは何も私だけではないだろう。

今日、日本の大学進学率はすでに50%を超えるようになっている。つまり、大学は、すでに
高校卒業生の2人に1人は進学する大衆教育機関となっているのである。大学生に相当する
年齢層の人口が減っているにもかかわらず、高校卒業生の2人に1人が進学する機関に
なっているということは、日本の大学は、とっくにユニバーサル化の段階に入っていることを
如実に意味している。大学は、すでに20~30年以上前のように、「進学校」とよばれる
一部の限られた特定の高校の生徒のみが進学する教育機関ではなくなっているのである。
そしてまた、社会のありようが変われば、当然、大学もそれに合わせて変質していかざるを
得ないのは、いまさら強調するまでもない。

それゆえに、大学が学生に対して過保護傾向になるのはやむを得ないのかもしれないが、
最近、私が驚いていることの一つに、保護者(父兄)懇談会なるものを実施する大学が
増えていることである。実はこの保護者懇談会なるものは、ついに、ウチの大学の、
私が所属する学部とは別の学部でも実施することになったようで、大学がある意味学生に
対して「冷たかった」頃の時代の大学教育を受けてきた自分にとってみれば、まさに隔世の
感がある。「大学生になっても保護者懇談会とは何だかな」と思ってしまう。
しかも、東大でさえも、今では父兄対象の懇談会を実施しているというから、日本の大学の
中等教育化はついにここまで来てしまったのかという感をぬぐえない。

しかし、この保護者懇談会なるものに疑問を感じ、懸念を抱くのは、何もこうした理由だけ
からではない。その理由は大きく二つある。

一つは、日本の場合、大学に進学する学生の主な年齢層は、18歳から22歳である。
18歳から20歳まではたしかに法律上でも「未成年」であるが、20歳以上は「成人」である。
この「成人」を超えた学生に対して「保護者」といういい方は、なんか違和感を感じる。
それでも、新入生や大学1、2年生対象なら法律的にも「未成年」に区分されるから
まだ分からなくもないが、3年生、4年生になっても「保護者」懇談会って、なんだか
いつまでも大学が学生を子ども扱いし、こうした法的な概念と照らし合わせると
矛盾しているようにも思われる。
(さらにいえば、「保護者」と命名するならば、飲酒も当然禁止されるべきであろう。)

そして二つ目に、こうして大学が保護者懇談会なるものを開催することは、他方で、
ますます子どもの親離れする年齢を引き伸ばし、また、逆に親の子離れを阻止する
ことにも繋がりかねない。最近、「モンスターペアレント」の存在があちこちで聞かれる
ようになり、子どもがいつまでたっても親離れできないだけでなく、逆に子離れできない
親が増えていると聞くが、こうした保護者懇談会なるものがこれ以上あちこちの大学で
開催されるようになれば、そうした動きをますます助長するようにもなりかねないのでは
ないだろうか?現に、大学入試はおろか、就活での面接や子どもの就職先の入社式に
まで親がくっついてくる時代になっているくらいなのだから。

大学とは、いうまでもなく義務教育ではない。たしかに、昔に比べて大学は大衆化し、
望めば誰でも行けるような時代になっているから、そのような観点からいえば、今は
実質的には義務教育に近いような側面も出てきている。とはいえ、大学とは本来、
そこで学びたい者だけが自己の意志や選択に基づいて行くべきところである。
この大学本来の趣旨や根幹は、大学の位置付けや社会における役割がいかに変化
しようと、決して揺らぐべきものではない。

たしかに大学が中等教育化し、社会における位置付けが変わりつつあるなかで、
大学もいろいろ苦肉の策を考えなければ生き残りが苦しい時代に入っている。
このような「大学受難の時代」に入れば、これまでとは何か異なる工夫や取り組みが
大学としても求められるようになってくるのはやむを得ない。おそらく各大学側も、
学生の親に対し、「これだけ学生の立場に立った教育や指導を熱心にやっている
んですよ。だから安心してくださいよ」ということを伝えたくて、こうした保護者対象の
懇談会を設けているのだろう。しかしながら、ケアの良さを強調したいのであれば、
もう少し別の方法がありうるのではないだろうか。大学が率先して保護者懇談会
なるものを実施するというのは、上のような理由から首をかしげざるを得ないのが
正直な実感なのである。