2011/06/26

大学全入時代において日本の大学は「出口」を厳しくせよ

早いものでもうすぐ7月。今年も半分が過ぎようとしております。
7月になれば、大学は夏休みを迎えると同時に、来年度の大学受験生(高校3年生)を
対象としたオープンキャンパスの時期を迎えますが、早いところでは、もう来年度の
入試に向けて本格的に動き出すところも出始めてきます。

日本では、少子化に伴う大学受験人口の減少が見込まれるにもかかわらず、
90年代以降、大学の新設または学部学科や定員の増設が相次いだことのツケもあり、
今や私立大学はいうまでもなく、国立大学でも、定員を確保するために、さまざまな種類の
入試を行って学生の確保に力を注がざるを得ない時代になっております。
(東大でさえ、今やオープンキャンパスなるものを実施する時代ですからね。)

さまざまな試験制度により、多様な学生を確保すること自体は別に悪くはないのですが、
今の日本の大学では、実質的に無試験に近い推薦入試・AO入試による入学者が
年を追うごとに増え、とくに私立大学においては、その全国平均値がすでに50%を超える
ようになっております。かつて高偏差値で有名だった早稲田大学政治経済学部でも、
定員の約半分が指定校・推薦・AOなど、いわゆる無試験による入学者とされています。
ちなみにウチの大学は、現在のところ、推薦比率は姉妹校推薦も含め4割以下に抑えて
あるのですが、それでも、推薦入学者の学力にバラツキがあることは、ときどき教員の
間でも話題になりますし、実際、昨年の教授会はそれで議論が長引く場面もありました。

最近、企業の人事担当者などの間でホットな話題となっていて、しかも頭を悩ませている
大きな問題のひとつは、一流有名難関大学の学生だからといって、そのレベルが信頼
できなくなってきており、採用活動に莫大な負担と労力がかかるようになっていること、
なんだそうです。

日本の大学は、概ねバブル期までは「受験戦争」といわれたように、大学入試が熾烈でした。
「入るのは難しく、出るのは易しい」といわれていたように、厳しい入試を経た後の反動も
あってか大学は「レジャーランド」とまで形容され、そうした観点からさまざまな批判も
ありました。けれども、少なくとも、大学入学時点でのフィルターがそれなりに機能できて
いたので、社会や企業は、その時点での基礎学力(つまり入試偏差値)を主なよりどころと
して当該学生を評価してきましたし、またそれができてきました。

しかし、今や、推薦入試やAO入試によって入学する学生が一流有名難関大学でも
増えていることもあり、そうした大学の学生でも、中学生レベルの英単語や構文が
分かっていない、漢字が書けない、文章が書けない、簡単な計算ができないといった
ケースが珍しくなくなっているという声をあちこちで耳にします。つまり、入試偏差値が
あてにならなくなってきていることから、これまでのように、高偏差値の大学の学生
だからといって優秀な学生というように判断することが難しくなっており、そのため、
かえって出身高校の学力レベルを判断材料とせざるを得ないケースや、エントリー
時点で入学種別を問うようなケースも増えてきているのだそうです。
(つまり採用人事担当者側も、予備校を通じて世間に出ている大学の偏差値を信用
しなくなってきたということですね。ちなみに、企業の採用人事担当者は、多くの大学で
「偏差値操作」を行うようになってきたということもさすがによく知っております。)

たとえばアメリカなどでは、よく「入るのは易しく、出るのは難しい」といわれてきました。
日本は少なくてもバブル期まではこの逆のケースだったわけですが、しかし、今や
日本の大学は、「入るのも出るのも易しい」という状態になってしまっているわけですから、
企業の大学つまり高等教育に対する信頼性が低下しているのも無理もないのかも
しれません。たとえ推薦やAO入試で入学する人が増えても、その分、アメリカの
大学生並に勉強しなければ授業に付いてこれないような、出口が厳格なような
システムにすれば、まだ展開は異なると思うのですが、今や、入口が易しくなった
にもかかわらず、出口も従来通り易しいままであれば、高等教育に対する信頼が
なくなるのも当然といえば当然でしょう。

大学生の就職難といったとき、メディアでは、不況など経済的な側面ばかりが強調
されてこの問題が取り上げられやすいのですが、大学進学率が高校卒業生の50%を
超えている今、バブル期までであれば、大学にとても行けるようなレベルになかった
生徒まで大量に大学に行くような時代になっている。このことが、大学生の就職難を
生み出している主な背景の一つにあるというような側面にも、もう少し着目されて
議論されていく必要があるように思います。

一方、大学側も、定員確保のためとはいえ、基礎学力に欠く学生を入学させたなら、
少なくとも社会に出すのに恥ずかしくないレベルにまで学生を鍛え上げ、学力を担保
させた上で社会に出すようにする責任があります。いまどきの日本の大学は、総じて
学生に甘いですが(どうも、学生に「優しい」のと「甘い」のをはき違えている教員も
少なくないのがまた問題なのですが)、日本も大学のユニバーサル化時代を迎えた今、
かつてのように入口を難しくするのができないのなら、せめてアメリカのように、
今度は出るのを難しくすることを本気で考えなければならない時期に来ているように
思われます。そうでなければ、定員自体は確保できたとしても、「大学」として本来の
機能を維持させることが難しくなり、そうしたところから日本の大学は崩壊していって
しまうように思います。

2011/06/19

日本の女性は「相対的貧困」に陥るリスクが高い

最近、私の担当している学部2年生が多い授業で、「相対的貧困」について取り上げました。

ご存知の方も多いとは思いますが、「貧困」の定義には大きく二種類あります。

まず、ひとつは「絶対的貧困」。
これは、たとえば飢餓や餓死寸前にあるアフリカやアジアの途上国の人々の様子を想定
すればお分かりいただけるように、生命の危機に瀕している状態の貧困のことを指します。
一般的に「貧困」といった場合、とりわけ日本では、多くの人々の頭の中に浮かんでくる
「貧困」のイメージはこの「絶対的貧困」です。

これに対して、もうひとつは「相対的貧困」。
「相対的貧困」とは、一般的に、その国の国民であれば、普通この程度の生活レベルは
享受できるだろうと多くの人々に認識されているレベルの生活水準を享受できない人々、
つまり、所得水準でいえば、その国の平均所得の半分以下の所得水準にある人々の
ことを指します。現在の日本国民の年間平均所得が445万程度といわれておりますので、
日本では、だいたい年収200万程度以下の所得しかない人々がこの「相対的貧困」に
該当します。

今日の日本では、いまさら強調するまでもなく、格差、格差といたるところで話題に上り、
そして問題視されております。もちろん最近は、失業や収入低下により健康保険を支払う
ことができなくて保険証を取り上げられ、病院にかかることができなくて、症状を悪化させて
亡くなったりするケースなども増えておりますので、こういうケースは「絶対的貧困」に該当
してくるのでしょうが、今日の日本で「格差」あるいは「格差社会」といった場合に問題に
されている格差とは、主にこの「相対的貧困」のことを指しています。

そこで私は、最近、自分の担当している授業で、学生に「あなたは自分のことを『貧困』だと
思うか?」と尋ねてみました。そうしたところ、何とほとんどの学生の反応はNo。。。

ちょっとこれには驚いたので、「相対的貧困」の概念を繰り返し説明し、今はとくに非正規
雇用が増えていて、①とくに女性の場合、日本では「働く女性」の2人に1人(つまり50%
以上)は非正規雇用であること、②たとえ正規雇用であっても、昔のようにそれで安泰という
時代ではなく、正規雇用から外れてしまうリスクが非常に高くなっていること(しかも日本の
場合、一度非正規雇用になってしまえば、正規雇用に戻ることは非常に困難)、③単身
高齢者の「相対的貧困」層が年々増加し、しかも日本では高齢者の性比では女性の方が
高いため、女性ほどそのリスクが高いこと、などを繰り返し説明しました。
でも、どうもみんなあまりピンと来ない様子。

無理もありませんよね。だって、バイトくらいはしていても、まだ就職して社会人になる前の
学生たちだし、ましてや子育てを行っているわけではないですから。それに、ウチの学生は、
地方の保守的な親のもとで大切に育てられた(お嬢様というよりは)箱入り娘が多いので、
感覚的にどうもいまいち、あまりこういう問題を自分に身近な問題として認識しきれない
のかもしれません。

まあ、今はそれでも致し方ないのかもしれませんが、でも、この「相対的貧困」の問題は、
3年生になって就職活動をする頃になると、すごく切実な問題として感じられてきますよと
私は強調したいです。

なぜかって、女子一般職の就職はどんどん厳しくなってきていますからね。ウチの大学は、
伝統があり、地域ではそれなりに名門とされる大学なので、これまで、地元老舗企業や
大手企業の支店の一般職などに多くの「指定席」を持っていたのですが、ここ数年の学部
4年生の就職状況をみても、それが急激に少なくなってきています。

それだけに限らず、とくに女性が多い秘書職や事務職などは、今は多くが非正規雇用に
切り替わっていますし、仮に正規雇用であっても、これらの職種は生涯にわたって経済的に
自立していけるほどの待遇ではないケースがほとんどです。「家族」だっていつまでも
健在ではないのですから、親にパラサイトできなくなったときどうするのかなと。
そのときは結婚すればいいやと思う女子学生も少なくないのでしょうが、今はその相手すら、
昔ほど年功序列・終身雇用でがっちりと守られているわけではないのですから、
いざとなったとき、自分で経済的に自立していけるだけの職についていなければ、
すぐに「相対的貧困」層に転落してしまうのですよ。(家族社会学者で、パラサイト
シングルという言葉の生みの親である中央大学の山田昌弘先生などが「女性にとって、
今や専業主婦という選択ほどリスクの高いものはない」とあちこちで声高にいって
いるのは、まさにこのことと同じ趣旨なのです。)

それに今、日本の企業は、事業のグローバル展開や日本の大学生の質の低下もあって、
本来、新卒に割り当てられていた採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせています。
一般的にいって、日本で大学を卒業するような外国人留学生の多くは、母国語のほかに
日本語、英語ができるだけでなく、たくましくてアグレッシヴですから、こんな地方の
女子大で周りがお膳立てしてくれるような環境でのほほんと温室で育った学生たちが、
こうした外国人留学生たちと同じ土俵に立ったらどうなるだろうかということは、もはや
説明するまでもなく目に見えていることでしょう。

つまり、今の女子学生の多くは、「相対的貧困」に陥るリスクが非常に高いのです。
それなのに、今の女子学生はあまりにも本人にその自覚というか危機感がなさすぎると
感じるのは私だけでしょうか?

そういうわけで、ウチの学生だけに限らず、今の日本の女子学生には、「貧困」という問題を
けっして自分たちと対極にある問題なのではなく、自分たちの身にいつ降りかかってくるか
わからない切実な問題として、この問題に向き合っていってほしいと思っています。

2011/06/07

大学のレベルと大学教員のレベルは必ずしもイコールにあらず

研究者や大学教員をやっていると、全国のいろいろな大学の先生と出くわす機会があります。
その中には、旧帝大や全国的に知名度の高い大学の先生から、受験生の獲得や生き残りを
かけて苦しい立場に立たされている大学の先生まで、実にさまざまな立場や環境に置かれ、
そしてさまざまな個性や特徴を持った先生と出会います。

そこで感じることは、いまさら言うまでもなく、大学教員や研究者の業界では元から「常識」と
されていることなのですが、20~30年前までならともかく、今は東大や京大などの先生だからと
いって、いわゆる「優秀な」先生とは限らないこと。しかし、この現実を案外世間一般の方々は
認識していません。頭では分かっていても、やはり「東大の先生だから偉いよね~」というような
反応が無意識のうちに出てしまう方が大半なのではないでしょうか。

もちろん、東大や京大は典型的な研究型大学で、しかも大規模な大学で教員の人数も多い
ですから、それに比例するかのように学界や研究者の業界で名を馳せている先生もそれなりに
多くなるのでしょう。しかし、他方では、教育者としてはおろか、研究者としてもロクな研究業績が
なく、学内政治だけでのし上がってきたような先生、おそらく世間から見れば、よくこんなんで
東大や京大の先生になれたなと思わせるような先生もごく普通に山ほどいるのが現実です。
(これは決して誇張ではなく、また悪意があって言っているわけでもありません。そんな先生は
ほんとうに珍しくないのです。)

私はここに名をあげた某旧帝大の大学院を出ていて、またもう一方の大学の方でもポスドクの
経験があるのですが、たしかにその頃の経験を振り返っても、ロクに学生の研究指導をしない
どころか(つまりは指導放棄ですね)、それができない、または自分の指導している、あるいは
自分の専門分野に近い学生の研究発表にすらトンチンカンなコメントしかできず、かえって
学生を困惑させてしまうような先生たちの姿を当たり前のようにたくさん見てきました。
学会や研究会の場に行ってもそうです。

一方、知る人ぞ知る大学、全国的にはあまり知られていない地方の大学ではあるけれども、
なかなか新進気鋭の優秀な研究者で、人格的にも学生の研究指導や教育にも優れたものを
持っている先生はたくさんおります。
(とくに最近は、むしろこういう大学の方が案外優秀な研究者が「埋もれて」いたりもします。)

世間一般では、「大学(学部)のレベルが高い大学ほどいい先生がいる」と思われているの
かもしれません。だからこそ、首都圏の有名大学の先生がテレビ番組のコメンテーターなどに
よく声を掛けられて登場しやすいのでしょうし、また新聞社の取材に対するコメントや一般書の
執筆を頼まれたりもしやすいがために、一見活躍して業績をあげているようにみえるのですが、
しかし、実際そうした先生がそこで言っている意見やコメントなどを聞いていると、往々にして
案外「素人」よりも的外れなものであったりすることも多々あります。(問題は、それが「有名
大学の先生が言っていることだから」と安易にオーソライズされてしまい、そういう必ずしも
正しくない認識が最も支配的な見解として世間に流布してしまうことなのです。)

早稲田などでは、昔からよく「学生一流、施設二流、教員三流」などといわれてきたように
(「学生一流」は今となっては怪しいですが)、大学のいわゆる学部の入試難易度やレベルと、
大学教員のそれとは決してイコールではありません。たしかに、学部の入試難易度の高い
大学であれば、教員の方はそれだけ教育の手間や負担が少なくて済み、その分、自分の
研究や「仕事」に時間を注ぐことができますし、一般的に社会的な注目度も高くなりますので、
大学教員の多くはそういう大学でポストを得たいと考えるのでしょうが。。。

けれど、自分が大学教員になった今、「一流有名難関大学の先生=優秀」という認識は、
ますます覆されつつある今日この頃なのです。