2011/07/12

岐路に立たされる「日本型お嬢様大学」

戦前から戦後のある一時期まで、女性が高等教育を受けることに対してその途が限られていた
日本では、「お嬢様学校」という存在をありがたがる傾向にあります。
一般に、「お嬢様学校」の多さ、またそれがステイタスという発想が強い地域であるかどうかは
人口や富裕層の多さにも比例しますので、やはりそうした層が厚く、「お嬢様学校」がマーケット
として成立しうるような首都圏や関西(京都や神戸)といった大都市圏ほどその傾向が強いと
されています。

一口に「お嬢様学校」といっても、そこで話題の対象に上ってくる学校名などをみると、
何をもってそう定義するのかについてはなかなか統一した見解がなく、人によりさまざまですが、
多くの人の意見を参考にすると、だいたい次のような基準に該当するところが世でいう「お嬢様
学校」に該当すると考えてよいでしょう。

<最低限の必須条件>
①キリスト教主義の学校である(この場合、カトリックかプロテスタントかは問いません)
②歴史が長く伝統がある
③小学校か中学校から大学まで持っている

<その次の必須条件>
④祖母、母、娘、姉妹が揃ってそこの学校の卒業生であるケースが多い
⑤卒業生に著名なOGがいる
⑥その学校が所在する地域での評判がよく、愛されている



「お嬢様」の定義には大きく二通りあると思われます。一つは、財閥や旧家のご令嬢といった
意味での資産家のお嬢様、そしてもうひとつは、家柄はそこそこだが、堅実で保守的な親に
大切に育てられたお嬢様(箱入り娘)です。

前者は、大学でいうと、伝統的には関東のK大学、G大学、S女子大学、関西のD大学、
K学院大学などに多いとされますが、後者は主に、関東のそこそこ知名度のある
キリスト教系の女子大のほぼ全てと、首都圏や関西以外の地方にある(地方といっても
比較的大きな都市に限定されますが)上記6つの条件を備えたキリスト教系の伝統ある女子
大学がこれに該当します。

このように、同じ「お嬢様」でも、前者の財閥や旧家などの資産家のご令嬢といったタイプの
お嬢様大学は共学の大学もそこそこ存在し、最近は旧帝大クラスの難関国立大学にも
そうしたタイプのお嬢様が増えつつありますが、後者の保守的な親に大切に育てられた
箱入り娘タイプのお嬢様が多い大学は、ほとんど女子大に集中していることが分かります。
こういう後者のタイプの女子大を私は「日本型お嬢様大学」とみなしています。

これら後者のタイプの女子大学は、総体的にみて、どちらかといえば、よくいえば温和で
穏やかな校風を持っていて、学生を大切に育てますが、悪くいえば、学生に何でもお膳立て
して過保護に育てる傾向にあります。また、大学側も、「これからの時代に対応できる女性を
育成する」などと謳い文句をうたっていても、根本のところでは良妻賢母志向で、また時には
時代錯誤と思えるほど意識が古いのは今もあまり変わっておりません。ですから、そうした
大学に学んでいる女性たちも、周りから何かかっちりしたものを与えられて、その中で物事を
こなしていくという意味での能力は決して低くはありませんが、自ら主体的に物事を考えて
行動し、周囲を取りまとめて行くような「自発性」「リーダーシップ性」を持った女性というのは
なかなか育ちにくく、さらにいえば、同じ女子大学でも、自由や革新性、自主性を尊重する
プロテスタント校よりも、保守的でガードが固いカトリック校の方がその傾向がより強いように
思われます。

高度経済成長期~バブル期の頃のように、企業が大量に一般職OLを採用していた時代は、
女性社員には与えられたものを率なく無難にこなす能力が求められましたし、そうした女性
たちは正社員である自社の男性と結婚して専業主婦になることがよしとされていたので、
こうした後者のタイプの「日本型お嬢様大学」はそれなりの機能や役割を果たしていた
わけです。

しかし今のように、不透明で変化が激しく、女性にも即戦力として周囲の意見を取りまとめ
ながらリーダーシップを発揮していくことが求められる時代においては、こうした後者の
タイプの「日本型お嬢様大学」が果たしてきた役割というのは、ほぼその使命を終えたと
考えられます。(前者のタイプの旧家財閥・資産家型の令嬢であれば、やはりコネで
押し込んでもらえるだけの家柄からくる強さからがあるので、雇用の変化による影響は
今のところそれほど受けずに済んでいるのでしょうが。。。)

ちなみに、日本のカトリックの「お嬢様学校」というのは、ほとんど小中学校から持っている
のですが、初中等教育までなら、いってみれば与えられたカリキュラムをいかに忠実に
こなすか、教科書のようなテキストによって与えられた知識をいかに吸収していくかが主に
なりますので、規則にしっかり縛られるような、そして過保護すぎるくらいの教育でもよいと
思います。

しかし、高等教育段階である大学では、そうした何か枠組みをあらかじめがっちりつくって、
そのなかに守るような感じであてはめていくような小中高までの教育と同じような方針や
認識では、学生の自発性などというものは到底育つはずもないのです。
しかも、そうした教育方針のもとで育った女性は概ね依存心が高く打たれ弱いですから、
それこそこれからの時代に求められる女性というのはなかなか育ちにくいのでしょう。

また、こうした理由が、世間で「お嬢様学校」といわれる女子校において、女子大に併設
されている附属の(小)中高から、かつてのように、そのまま上の大学に上がる生徒が
少なくなり、さらには外部からも優秀な女性が集まりにくくなって、女子大の相対的な
レベルや質の低下を招いている一因にもなっているものと思われます。実際、今の
日本のこの「女子大厳冬の時代」においては、女子大全般が凋落傾向にあることには
変わりませんが、そのなかでもよりその傾向が大きい女子大に共通してみられる傾向
としては、主に①学長のリーダーシップをはじめ、経営陣が概して必要以上にマイナス
志向というか保守的で新しいことを好まない、②学校側も過去の伝統や栄光に胡坐を
かいている、という点が指摘できます。

主にこんな要因が、「日本型お嬢様大学」の低迷に繋がっているように思われるのですが、
それにもかかわらず、日本ではなぜ未だにこういうタイプの女子大学をマスコミが持ち上げ、
また実際に世間でもありがたがる風潮にあるのか、私にはよく理解できないのです。

2011/07/09

留学のハードルが低下している今、あらためて留学することの意味を問う

最近、メディアでは、アメリカに留学する日本人の減少がしきりに報じられています。
ハーバード大学でも、中国や韓国からの留学生は急増しているものの、日本人はそれに比べて
数えるくらいしかいなくなっていることから、大学側が日本で留学説明会を行ったりしていますし、
最近は日本の政府側も「若者よ、海外に目を向けよう、海外に出よう」などと、しきりにアメリカ
留学を促すような展開に出ています。(NHKなんかも、しきりに「ハーバード白熱教室」を放映
しているのも、国民とりわけ若者のアメリカ留学やハーバード大学自体への関心を高めようと
必死になっているためです。)

たしかに欧米圏への留学は最近は減少傾向にあるものの、目をアジア圏に転じてみると、
逆にアジアに留学する日本人は増加傾向にあるのです。しかし、このような現実をなぜか
日本のメディアはあまり伝えようとしません。(こうした現状をみると、なんだかんだいっても、
日本のメディアや政府側の欧米を上位とみなす認識は、まだまだ変わっていないんだななんて
思ったりもします。)

まあ、それはともかくとして、アジア圏、とくに中国や台湾など中国語圏に留学する日本人は、
アメリカなど欧米圏に留学する日本人が減少しているのとは対照的に増える傾向にあります。
アジア圏(ここでいうアジア圏とは、とりわけ東アジア・東南アジアを指しますが)では、その
特有の歴史的・政治的な背景やそれに絡む社会事情と関係して、国内の高等教育機関が
拡大発展してきたのは、概ね90年代に入ってからといえます。アジア圏においては、自国民の
高等教育は主に欧米への留学や植民地時代の宗主国への留学によってなされてきたため、
国内の高等教育機関の整備は戦後しばらくはなされてきませんでしたし、長らくそういう状況に
ありましたので、留学生受け入れのための制度が整ってきたのも、せいぜいこの20年弱の
間でしかありません。

たとえば、中国では、外国人留学生の受け入れが正式に始まったのは改革開放が実施された1978年からですし、台湾においても、留学生の受け入れに向けた制度が整い始めてきたのは、1990年代に民主化が加速化する中で、国内の高等教育機関の「本土化」が進むようになって
からです。こうした事情から、中国や台湾をはじめ、アジア圏の国や地域では、「外国人留学生」
といった場合、そこで正式に入学して課程を修了して学位取得を目指す留学というよりも、
いわゆる現地の語学を習得することを目的とする留学生が現地の政府側においても長らく
想定されてきましたし、実際、アジア圏に留学する外国人留学生は、ほとんど語学習得を目的
として留学するパターンが主体でした。(とくに日本人の場合はよけいにそうでした。)

しかしながら、近年の傾向として、アジア圏でも、かつてのように語学留学だけでなく、現地の
大学や大学院に入学する日本人が増えるようになってきています。たとえば、かつて私が留学
したことのある台湾でも、私が留学した1990年代後半当時は、現地の大学や大学院に進学する
日本人はごく少数でしたが(さらに、この当時はまだ、台湾の大学・大学院に留学したいと
思っても、まず最初は政府教育部指定の外国人向けの中国語コースに入学することを半ば
義務付けられておりました)、最近は、かなりの割合で台湾の大学や大学院に進学する
日本人が増えています。

それにはいくつかの要因が考えられます。とりあえずざっと思いつくのは、たとえば、①台湾に
関心を持つ日本人が増えてきた、②現地に日本製品が溢れ、日本と変わらない生活ができる
ようになってきた、という要因以外にも、③台湾の政府が外国人留学生受け入れに積極的になり、
外国人留学生受け入れのための政策が整備されるようになってきた、④ビザ取得のための
条件が引き上げられるようになってきたが、その際に現地の大学や大学院を出ていれば有利
になる、ことなどが考えられます。

このように、台湾の大学や大学院に進学して学位取得を目指す日本人が増えていること自体は、以前では考えられなかった展開でもあり、留学による現地での滞在や生活を通じて、台湾社会を
良くも悪くも正しく理解する日本人が増えることに繋がっていると考えられる点で、私個人としては
おおむね好意的に捉えています。

しかし、現地の大学や大学院に入る日本人が増えたからといって、必ずしも望ましい展開ばかり
とは限りません。実際にふたを開けてみると、台湾の大学や大学院って、外国人留学生とくに
日本人はかなり簡単に入れますし(今はどうかわかりませんが、以前は、台湾で最高学府と
される台湾大学でも、日本人は簡単な中国語の試験と書類選考だけで入れました。専攻に
よっては、中国語の力すらろくに問われない場合も多々あります)、それだけでなく、何と台湾の
大学院ありながら、日本語で学位論文を書いて修了できる大学院もけっこうあるのです。

実際、自分のまわりだけでも、台湾で2~3年中国語留学をした後に(人によってはそれ以上)、
台湾の大学院に進学した人、たとえば、台湾の国立T大学、私立TG大学、同じく私立TK大学
などで、修士の学位論文を日本語で書いて修了した人が複数おります。
(台湾に中国語を学ぶために何年も留学しておきながら、日本語でしか学位論文を書けない
なんて、かえって情けないことだと思いますが。。。英語だったら、一応、グローバル言語なので
まだ分かりますけどね。日本語で学位論文を書いて修了できる国なんて、おそらく台湾だけだと
思います。ちなみに、もし私が採用担当者なら、何年も留学しているにもかかわらず日本語で
しか学位論文を書けないなんて、そんな人は絶対に採用しません。)

しかも2000年代以降の台湾では、日本で博士を出たけれど国内に適当なポストを見つけられ
なかった日本人が大量に台湾の大学に就職する時代になっていますから、現地に留学した
といっても、実際、留学先の担当教員やあれこれ世話を焼いてくれる受け入れ教員が
日本人(もしくは日本で学位を取った日本語ペラペラな台湾人教員)というケースが普通で、
実際、それはかなり多いです。したがって、台湾に留学したといっても、指導教員は台湾の
大学に奉職している日本人の先生で、学位論文審査のメンバーはみな日本語ができる先生
というケースも多いのが現状なのです。

おそらくこうした事情をよく知らない人たちは、台湾に留学して台湾の大学や大学院を終わった
というと、「じゃあ、中国語ができるのね」と思うのでしょうが、概ね90年代半ば以前に台湾の
大学や大学院を修了したのであればともかく、最近は、このように日本語で学位論文を書いて
修了できる大学院も結構出てきていますから、台湾に留学したからといって中国語ができる
とは必ずしも限らないのです。

以上のような事情もあって、私は台湾に留学している日本人の質は、総体的にみてあまり高い
とは思いません。まあ、これは別に台湾だけに限らないのかもしれませんが、台湾の場合は
とくに日本人は何かと優遇されていて周囲が助けてくれますし、これまでに述べてきたように、
台湾人学生にとっては難関とされる大学でも、日本人はそれに比べてかなり簡単に入れること、
それと入ってからも日本語で学位論文を書いて修了できる大学院も少なくないことから、
さまざまな意味で、日本人が留学する上で最もハードルが低い国なのではないかと思います。
(ちなみに、90年代後半に台湾に留学していた時、クラスメートの韓国人が「日本人はうらやま
しい。だって、日本語教師のバイトがいくらでもあるけど、韓国語を教えるバイトができるところ
なんて、それに比べたらほとんどないからね。あなたがた日本人は優遇されている。」といって
いたのを思い出します。)まあ、こんな要因も、台湾で大学や大学院に入る日本人が増加して
いる一つの背景になっているのかもしれません。

英語圏では、さすがに台湾のように日本語で学位論文を書いて修了できるというような事例は
まずないとは思われますが、たとえば、私が知っている人で、オーストラリアの有名国立大学で
Ph.D.を取得したある女性の場合、先方での指導教員は日本人と結婚していて日本語がほぼ
ネイティブの先生であり、またPh.D.論文を書くにあたって、翻訳・校閲を担当してくれる人が
付いていてくれたのだそうです。彼女自身も、「だからオーストラリアで学位を取得できた」と
言っておりました。

しかも、海外の大学・大学院に留学する日本人に関してもうひとつ疑問に思うのは、この女性に
限らず、先ほどの台湾の例も含め、学位論文のテーマは、ほとんどの場合、なぜか「日本」に
かかわるテーマなのです。こういうことを指摘すると、「海外から日本をみる」ということに意味が
あるのだとおっしゃる人が少なくないのですが、「日本」のことを研究するのであれば、別に
とりたてて海外である必要はないように思うのは私だけではないでしょう。

このような事例をよく聞くと、今はグローバル化の時代で、しかも各国や各大学では留学生の
受け入れに積極的になっているので留学がしやすくなったことは事実ですが、昔のように留学
制度がまだあまり整っておらず(大学等を通じた交換留学を含め)、しかもインターネットも
発達していなかった時代の方が、たしかに海外とりわけアジアに留学する日本人にはちょっと
「変わった」人が多かったのだろうけれど、留学することのハードルや、またそれによって
得られるものは今よりはずっと多かったように思います。

なぜなら、少なくとも一昔前くらいまでは、留学に行く前も自分で手紙や電話を通じて現地と
交渉しなければならなかったため、とくにアジア圏においては留学に行く前段階すら容易に
事が進まないなんて普通によくあることだったし、また、現地に行ってからも、とにかく日本語を
あまり使わずに生活せざるをえなかったし、もちろん、現地の語学をマスターしなければ現地の
大学や大学院に入って学位を取得するなどということは普通考えられなかったからです。
そのようなわけで、同じ1年、2年の留学でも、その中身はけっこう濃かったものでしたが、
今の1年程度の留学なんていうものは、おそらく実質は一昔前の半年分にも相当しないと
思います。

(同じようなことは、日本人以外の外国人にも同様に言えることかもしれません。たとえば、
私の知人で2000年前後に日本の博士課程在籍中にアメリカに留学したことのある香港人の
先生は、その約10年後に今度はサバティカルでアメリカに行きましたが、以前に比べて現地に
中国人が増えているせいか、現地ではほとんど中国人や中華系の人とばかり過ごしていて、
英語も最低必要限程度にしか使わなかったし、インターネットも発達している時代なので、
過ごした年数自体は前回と同じでも、前回の方がアメリカで過ごした時間がずっと長かった
ように感じられたと語っておりました。)

このように、留学事情の変化を追ってみると、留学することのハードルが低くなり、また留学した
からといって何か特別に「すごい」とか、とりたてて「現地の言葉ができる」というような時代でも
なくなった今、アメリカに留学する日本人が減ったからといって、何もそんなに騒ぎ立てるほど
憂うことではないように思います。私たち、とくに日本人は、留学を何か特別にすごいこととか、
留学したから語学ができるというような認識からそろそろ転換というか脱却を図らなければ
ならない時期に来ているのであり、そうしたなかで、留学することの意味やメリットとは何なのか、
あらためて問われる時代になってきているのです。