2011/02/28

国内でも地域差がある日本とアジア間の人の流れ

今、勤務先の大学の仕事の関係で台湾に来ています。
今回は、現在私が住む都市に最寄りの空港から台湾に出発しました。
私が現在住んでいるところは、台湾人、いや台湾の人たちだけでなく、香港、韓国、そして最近は中国人観光客からも大人気の土地で、日本国内でもアジアの人々にとって最も人気のある憧れの地域となっているようです。

台湾に行くのにこの空港を利用したのは今回が初めてですが、そこで気が付いたのは、乗客のおそらく7割方は台湾人だったこと。

もちろんその大半は観光客だと思われますが、最近は台湾のフラッグキャリアであるエバー航空やチャイナエアラインも、東京や大阪に加えて日本の主要都市へのフリーパックを出しているようなので(だいたい2泊3日から3泊4日程度で、フライト、ホテル、往復の送迎が付いているタイプのもの)、観光客だけでなく、自分で何か商売を営んでいるような感じの人が、おそらくそれを利用してやってきて、当地の特産品を大量に買出しに来ているような感じの台湾人の姿もちらほらみかけました。

今年の年明けには、同空港から香港を往復したのですが、やはり香港線でも乗客の7割程度は香港人でした。そちらでも、家族旅行、リピーターの個人旅行者らしき人をたくさんみかけました。

ちなみに、私は数年前まで東京に住んでいたのですが、そちらから台湾や香港などに向かう路線では、逆に日本人の出張のビジネスマンらしき人、団体ツアー客などが多く目につき、台湾人や香港人の乗客はそれに比べればおそらく3割から4割程度と比較的少数派でした。

なるほど、私は今回の台湾行きはエバー航空を利用しましたが、客室乗務員は日本人が1人のみであと全員台湾人だったのですが、同じエバー航空に成田から乗った時は、台湾の航空会社にもかかわらず、台湾人客室乗務員は少数で日本人客室乗務員がほとんどだったというのはこうしたゆえんでもあったのですね。

こうしてみると、台湾、香港、韓国、中国など近隣のアジアと日本の間の人的移動は、全体に占める双方の乗客の比率を比較した場合、東京など首都圏からアジアに向かうのは日本人の方が比率的に多いのに対して、逆にこれらの地域から東京以外の地方主要都市への人の流れはアジアの人たちの方が多くなっており、同じ日本国内からの出発便でも、地域によってその乗客の国籍別比率に大きく違いがあることがうかがえます。

どうりで、フライトの時刻表を見れば、地方大都市の空港から台湾や香港に行くフライトは、午後もしくは夕方出発がほとんどで、逆に現地からのフライトは午前の朝早い時間になっているんですね。(ただ、逆に日本から出て行くこっちの身にしてみれば、逆にこのダイヤは不都合なのですが。。。)

現代のグローバル化時代における人の移動の特徴のひとつは、観光と移住の境界線があいまいになりつつあること。日本から海外に出て行く場合でも、「暮らすように旅する」とか「旅するように暮らす」といったような文言をよく雑誌などで見かけるようになりましたが、アジアから日本への観光においても、それがもはや一過性のものではなく、しかも彼ら彼女らの日本での観光消費行動が、地方都市においても、すでに単なる観光といった枠組みを超えるような側面さえ見受けられるようになっております。私が2010年9月に訪問した石垣島でもそうでした。

こうしてみると、日本の地方都市の産業や経済は、今後ますますこうしたアジアからの人の流れによって促されていくような気がします。

2011/02/10

評価の高いレポートと低いレポート

今、大学教員の多くは学生の答案やレポートの採点時期。

学生のレポートを採点していると、よく書かているレポートとそうでないレポートが必ずあるものですが、私が担当しているある講義授業では、授業で取り上げた内容とそれに基づいた理解に立った上で学生に自由にテーマを設定させ、それについて論じたものをレポートとして提出することを課しています。

そこで、一言でいうと、やはり評価の高いレポートは、多少ぎこちなくても、一生懸命自分の言葉で語ろうとしていることが伝わってくるレポート。そして、そこで語っていることがしっかり自分のものになっていて、事例が地に足が付いているもの。

逆に、評価の低いレポートは、剽窃ではないものの、ほとんどどこかから取って付けて書いたようなレポート。一見よくできているようでも、学生が普段使わないような言い回しや用語が散りばめられていれば一目瞭然。私は講義系で人数が多い授業では、授業数回に一回の割合でリアクション・ペーパーを導入しているので、そこに書かれてある記述と照らし合わせてみれば、それが果たして自分の言葉かそうでないかということはすぐ分かります。

ということで、私の授業のレポート採点は、まず、私が読んで感心したレポートは文句なく優評価。一般的に見てレベルが高く、論理的な展開がうまくできているものも優。それに対し、そつなくまとまってはいるけれど、あまり、知的なチャレンジになっていないものは残念ながら良評価。つまり、論述の根拠は示されているが、問題設定に書き手の個性があまり見られず、リアリティのない紋切り型の言い回しに寄りかかっている類のもの。そして、感想文レベルのもの、ほとんどコピペだろうと思われるもの、論拠が示されていないものは可の評価という感じになります。


大学というところは、高校までのように、たんに教科書に書かれてある記述をそのまま覚えるのではなく、いうまでもなく「考える力」「発信する力」を身につける場所。とくに私が専門としているような社会科学系の科目にはそれがいえます。

したがって、事実はひとつでも、一つの問題をさまざまな角度から見つめることができていることと、そこから推測できることを手掛かりに、自分なりの「論を立てる」というプロセスが重要。学生には、このような認識に立って、レポート作成に取り組んでほしいと思うものです。

2011/02/07

卒論面接口頭試問

私が勤める大学の私が所属する学科では、本日、卒論の面接口頭試問が終了しました。
今日は、自分が指導教員として主査になっている学生たちの口頭試問をはじめ、
副査になっているものも含めて、朝から夕方まで立て続けに面接口頭試問が行われました。

私は初めて学生の卒論面接口頭試問というものを担当しましたが、
これまでと異なって今度は自分が面接する側の立場に立ち、
学生たちの緊張した姿を目の当たりにして、思わず自分が学生だった頃を思い出しました。
なかには緊張して受け答えがしどろもどろになっている学生もいたけど、
けっこう皆しっかりと受け答えに応じていました。エライ!

ここで、私が主査を務めた学生の副査になってくださった、ある先生のお言葉。

「決して弱いところを突くのではなく、いいところを褒めてあげて、
こうすればもっと伸びるよというように、その学生を勇気付けてあげるような
観点からコメントをしてあげることが大事」

いいお言葉ですね。
研究者の世界に染まってしまうと、何かにつけて他人の研究や論文に対して
批判めいたことを言ったり、あら探しをしたりするという、ある種の「不健全な」姿勢が
自ずと身についてしまい、それが原因で思わぬ場面で関係がギスギスしてしまうものですが、
決して甘く評価するということではなく、人の長所を褒めてあげるということは、
他人だけでなく、のちのち自分自身にもプラスに跳ね返ってくるものだということを
あらためて認識した次第でした。

ウチの大学は、旧帝大のような決してアカデミックな権威をもった大学ではないけれど、
人を育てるという観点からみれば、なかなか優れたものを持っている大学かもしれない。
(本来なら、こういう大学こそが研究者を育てる機関として相応しいのかも。。。)

私の卒論指導学生たちは、全員就職も決まって一安心。
学生や先生方から勇気をもらった一日でした。

2011/02/05

大学院進学の心得―失敗しない指導教員の選び方

2月に入り、私の住む地域でも急にぐっと春めいてきました。私の勤める大学の私が所属する学科でも、卒論の面接口頭試問が始まり、初日であった昨日、さっそく5人の学生の副査を務めました。卒論とはいっても(失礼!)、みんななかなかしっかり書いていることに感心。。。

さて、この新規オープンしたブログをさっそくウチの大学の自分の周辺にいる学生にも宣伝したこともあり、1月31日付けのブログ「日本の文系大学院はリスク多し」を読んで、大学院進学に対して学生からさっそくいくつかの相談をいただきました。その相談の内容は、一言でいってしまえば、「指導教員を選ぶ際、できるだけリスクを少なくするにはどうすればよいのか」といった大学院での指導教員の選び方についてです。

たしかにこれはなかなか難しい。ある意味、大学院を選ぶより難しいことです。何せ自分自身、これで失敗した経験があるものですから。。。自分の出身大学・学部・学科に直属の大学院であれば、内部の事情や先生についてもだいたい分かりますが、外部の大学院を志望する場合、その先生の専門分野、書いている論文といった以外に情報がほぼないのがネックです。

そこで、外部の大学院に進学を考える場合、希望する先生の専門分野、どのような論文を書いているのかなどといったベーシックな情報を集めることはもちろんですが、それ以外にぜひ必ずやっておきたいことは、その先生に直接お会いして進学の相談に乗ってもらうことはもちろん、可能であれば希望する先生にお願いして、最低1年間は希望する先生のゼミに参加させてもらうことです。ゼミへの参加が無理であれば、通常の講義授業でもよいでしょう。(きちんとプロセスや礼儀を踏まえた上で丁寧にお願いすれば、良心的な先生であれば不親切な対応をすることはまずあり得ないので、この段階でそっけない対応をするような先生だったら、いくらその先生が研究者として優れていて有名な先生でも避けた方が無難です。)

なぜこれが重要かといえば、少なくとも1年間、その先生のゼミなり講義なりに参加していれば、その先生の考え方や方針、また性格やお人柄がだいたい分かるため、はたして自分に合う先生かどうか、安心して付いていって大丈夫な先生かどうかがかなり確実に見極められるからです。ホームページなどにはふつうはいいことしか書かれておりませんので、それに大きく頼って判断してしまうのは極めて危険です。

もし希望する先生が遠方の大学で、毎回の出席は無理な場合は、1年のうち何回かゼミや講義に出席させてもらう形でもよいでしょう。そして、そこでその先生の学生と仲良くなって情報を仕入れるようにする。さらに、今はメールが普及しているので、だいたい1年間くらいだけでも続けてその先生とやりとりをしてみること。ある程度の期間、定期的にその先生とメールのやりとりをしていれば、返事の内容や反応だけでも、先生のお人柄というものがけっこう確実に分かるものです。

何せ自分の研究者としての将来を託す先生。先生のリサーチは超重要。もちろん、普段の自分自身の努力が大切なことは言うまでもありませんが、付く先生の判断を誤れば致命的。大切な自分の将来にもかかわりかねないのですから。。。仮に1~2年進学が遅れたとしても、大学院に進学を本気で考えるのであれば、あとあとお金と時間を無駄にしないためにも、このプロセスは絶対に怠らないでほしいものです。

2011/02/02

就職が決まる学生と決まらない学生の差

大学生の就職内定率が過去最低を記録したというニュースが、連日のようにニュースで報じられています。

就職内定率過去最低 大学、支援に苦心 希望留年や学費減額
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20110119ddn003100020000c.html

大学就職内定率68.8%、過去最低に学長らは
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201101240088.html

この68.8%という数字は、全国平均なので、男女別、地域別に見れば、とくに地方の学生、女子学生の数字はぐっと低くなるでしょう。

ウチの大学は、一応、地域では名門とされる大学で、地元での評価はそれなりに高く伝統もあるため、昔に比べてレベルが下がったといわれる今日でも、OB・OGの培ってきた実績により就職は決して悪くはありません。実際、昔から金融や商社など地元大手老舗企業や大手企業の支店の一般職、航空、テレビ局といった女子学生に人気がある業界への就職率も高いですし、地元の学校教員、公務員などにもソコソコ採用実績があります。

しかし、昨今の経済・社会情勢の変化によって、女子一般職の採用を契約社員や派遣社員など非正規雇用に切り替えたり、あるいは昨今、事業のグローバル展開を視野に入れ新卒採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせるなどといった動きが加速化していることから、ここ数年だけでも、これまでウチの大学に来ていた銀行や損保、商社の学校推薦による採用枠も大幅に少なくなっております。そんなこともあり、この時期になってもまだ就職が決まっていない学生も、ちらほらと見受けられます。

ところが、少なくとも、自分の周囲にいる学生を中心にみてみると、就職が比較的早めに決まっている学生と、そうでない学生は、もちろんすべてがそうとは限りませんが、何となく共通する傾向が見受けられることに最近気がつきました。

就職が早めに内定していたり、複数の企業から内定をもらっている学生は、まず①基礎学力が高い、②ゼミでもいい形で周囲をリードできる、③教員とのコミュニケーションの取り方が上手い。

反対に、就職がなかなか決まらない学生のタイプは、①提出物や課題の締め切りを守らない、②しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする、といった共通した傾向があります。

「基礎学力が高い」というのは、平たく言えば、主に高校レベルまでの基礎学力がどれだけ確実に身についているかということ。最近は、よく「分数ができない大学生」「漢字が書けない大学生」といったことがメディアでも大きく報じられるようになり、大学教育の場でも大きく話題になっています。幸い、ウチの大学はそこまではひどくありませんが、それでも基礎学力がしっかりしている学生とそうでない学生の差はけっこうあります。

それでは、基礎学力の程度はどのようにしておおよそ判断できるかといえば、一概には言えませんが、意外にも確実な目安となるのが出身高校の学力ランク。最近は、高偏差値の一流大学の学生でも、推薦入試やAO入試で入学する学生が増えていることもあり、基礎的な漢字が読めない、文章が書けない、計算ができない、といったケースが増えているといわれていることから、ここにきてあらためて入社試験に漢字テストや計算といった試験を導入する企業が増え、また大学生の新卒採用においても、出身大学名よりも出身高校名を重視する傾向が出てきていると聞きます。さらに一部の企業では、採用面接の際に、一般入試で大学に入学したのか、それとも推薦入試・AO入試の類で大学に入学したのか尋ねるケースも出始めているそうです。(このことは、これまで当該大学の学生の相対的なレベルや実力を判断するのに、事実上、社会的に最も確実な目安とされてきた「入試」が十分な選抜の機能を果たさなくなってきたということの現れのひとつであるといえるでしょう。)

一方、就職が決まる学生の「ゼミでもいい形で周囲をリードできる」「教員とのコミュニケーションの取り方が上手い」、決まらない学生の「提出物や課題の締め切りを守らず、しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする」というのはもはや説明するまでもありません。

こうしてみると、社会や企業が求めている人材というのは、実は、基礎学力や一般常識をきちんと備え、かつ当たり前のことが当たり前のようにきちんとでき、その上で柔軟性に富み応用が利く人材であることが分かります。しかし、これら「当たり前」のことをきちんと備えた学生が、今日、相対的に減ってきていることが問題なのかもしれません。もちろん、それが理由のすべてとはいいませんが、大学生の就職率が低下し、企業が日本の大学新卒学生をなかなか採用したがらなくなってきたのも、こんなところにも理由の一端があるのかもしれません。

大学生の就職難は、単に目先の経済問題や若者の自己責任論だけにその理由を還元するのではなく、高等教育のあり方、あるいはもっといえば、それ以前の中学・高校における教育、家庭での教育や親の子供との向き合い方も含め、国民全体でもっと根本から議論していかなければならない問題であると思います。