2011/12/27

風評被害とメディアの社会的責任

最近、メディアによる風評被害とか、「メディア・リテラシー」といった言葉をよく耳にする。

私が持っている1年生向けの演習授業では、ステレオタイプではない複眼的な思考法を
身に付けてもらうために、学生各自で簡単なテーマを設定し議論をして、それをフィードバック
させた上で学期末にレポートを提出してもらうようにしているが、そのせいもあるのか、今年は
思いのほか、「インターネットの利便性と罠」とか、「テレビの役割再考」とか、「メディアの功罪」
といったメディア絡みのテーマを取り上げる学生が多いのが目立つ。

メディアとは、人々に世の中の動向を伝えたり、多くの人々はどのように考えているのかという
一般的な見解を伝える役割を果たす媒体である。このように、メディアは世間に正しい情報を
瞬時に伝えるという役割や責任を負っている反面、その報道が果たしてどこまで正しいのか、
またその報道の仕方については常に問題視もされてきた。

このように、メディア報道のあり方についての批判は必ずしも今に始まったことではないが、
今回、そうしたメディア報道のあり方を大きく再考するきっかけとなったのが、皮肉にも東日本
大震災や福島原発での放射能漏れという出来事であった。これによって、マスコミやメディア
報道による風評被害というものがあらためてクローズアップされるようになったように思う。

「風評被害」とは、けっして間違った情報を流しているわけではないのだけれど、ある一面だけ、
あるいは報道する側に都合がよいと判断された部分だけがクローズアップされて報道されて
しまうことにより、そうした報道をされた側が必要以上のダメージを受けてしまうこと。
つまり、情報がもたらす「二次被害」のことである。

福島原発による放射能漏れのニュースが過大に報道されることによって、福島出身の
子供たちが他地域の転校先の学校でいじめの対象になったり、福島県産の農産物が
売れなくなったり、海外で福島の知名度が必ずしも正しくない方向で広がったり、
さらには北海道・東北・関東など東日本で外国からの人の流れが大幅に減少したり
などといったことが生じたことは、あらためて強調するまでもないだろう。

こうした東日本大震災絡みのニュースだけでなく、私も常日頃テレビを見ていて思うのは、
ちょっとしたニュースや天気予報なんかでも、報じる側に共有されている認識や、
「中央」の人の一方的な思い込みでもってニュースが報じられてしまう傾向がしばしばある
ことである。ほんとにどうにかならないものかと思う時もあり、これこそが、まさにメディアの
功罪である。さらに問題なのは、そうしたメディアによって報じられた必ずしも正しくない
メッセージが最も支配的な見解として世間に流布し、「メディア・リテラシー」が十分でない
子どもやそうした大人たちに、ある種のステレオタイプ的な見解やイメージを植えつける
ことになってしまっている点である。

たとえば、「中央」のテレビ局によって全国に報じられる北海道に関する報道は、なぜか
「雪」とか、「寒い」とか、「気温が低い」といった点ばかりが強調される傾向にある。これは、
おそらくアナウンサーや報じる側が持っているそうした内在化された「まなざし」が無意識の
うちに出てしまっていることが、そうした報じ方に繋がってしまっていると思われるのだが、
それによって、聴衆には「ま~、北海道ってたいへん」「寒くて重くて暗そう」といったあまり
よくない側面でのイメージ形成に繋がってしまいかねない。

しかし、北海道と一言でいっても、九州や、海外で言うと台湾より広い面積をもつ地域である。
ゆえに、そうした「中央」発のメディアが報じる北海道のイメージなんて、いってみればごく
一部でしかない。しかし、それがあたかも北海道全体がそうであるかのように語られてしまう。
もし日本の天気予報が、ニューヨーク発であったり、ロンドン発でなされるものであるとすれば、
そこまで北海道が「気温が低い」とか「寒い」というイメージで報じられることはないだろう。
見方を変えれば、北米やヨーロッパからみたら、東京よりもむしろ北海道の方がヨーロッパや
北米と気候風土や街並みが似通っていることもあって、そうした意味においては、北海道の
方が世界の先進国標準に近いといえるのかもしれない。

似たようなことは日本の他の地方に対しても同様にいえることである。私の友人に
大阪出身の人がいるが、その友人は、「関東経由のメディアは、大阪というと、いつも
決まって道頓堀だとか千日前だとかコテコテの大阪イメージのところばかり報じる。
けれど、大阪にだって、東京に負けないくらいおしゃれなスポットはいっぱいあるし、
上品なところだってある。けれど、関東のメディアはなぜかそういう『おしゃれな大阪』は
報じたがらないんだよね。最近じゃ、海外でも大阪=やくざの街とかってガイドブックなんかに
載っているらしいし。逆に、関東の人たちは、神戸に対してはおしゃれイメージがあるようで、
若い女性が読むようなファッション雑誌はみな東京・横浜か神戸なんだよね。横浜なんかは
『エキゾチックな港町』というキャッチフレーズで語られて、多くの人たちもそうしたイメージを
持っているけれど、あそこには日本三大ドヤ街のひとつといわれるエリアもあるからね。
上手いイメージ戦略や」と語っていた。その友人は、「このところの関西の地盤沈下は
こんなところにも一因があると思われるから、私は東京なんか大嫌いだ」と強調していた
ことを思い出す。

(これと逆のケースは沖縄である。ご存知の方も多いと思うが、90年代に入るくらいまでは、
多くの日本人にとって沖縄のイメージは決して明るいものではなく、他のアジアの国々に
対してと同じように、どちらかといえばあまり肯定的なものではなかった。ところが、90年
前後を境に、「中央」発のメディアの報じる沖縄イメージがガラリと180度転換し、明るい
ポジティブなイメージに変わった。今では、東京に出てきて沖縄出身というと羨ましがられて
脚光を浴びるらしく、昔は差別と偏見の対象であったのとは大違いである。
これも、メディアの沖縄に対する報じ方が大きく変わったことが最も強く関係していると
思われるし、実際、「沖縄移住ブーム」なるものも、こうしたメディア経由によって促進された
部分も大きい。)

このようにみると、日本の地域や都市のイメージは、日本国の首都である東京つまり
「中央」の発するメディアによって必ずしも正しくない画一的なイメージを植え付けられて
しまっているといえる。しかも、単にそうしたイメージ形成だけにとどまるのならともかく、
それが実際、経済活動や産業の活性化、ひいては人口の流出入にも影響を与えるようにも
なっている。こうした点は、とくに地方の場合、直に地域の活性化や衰退にかかわってくる
のだから、メディアの功罪はたいへんに大きい。

したがって、各テレビ局や新聞社などメディアは、今回の東日本大震災や福島原発の件で
クローズアップされた風評被害を契機に、あらためてそうした社会的責任を世間に対して
負っているのだという自覚をもって、番組の制作やニュース報道にあたっていただきたいと
思うものである。

2011/12/05

かわいいな、この猫

またまた猫の話だが、youtubeでとってもかわいい猫をみつけた。
その名は、「歳三」。
名前から来るイメージとはちょっと異なるけれど、とにかくかわいい。
かわいいにも程がある!けっこう大きいけれど、でも大きくなっても
こんなにかわいいだなんて、飼い主さんは大当たりだな。
なかなかの美猫。





猫の好きな人は結構多い。
最近は、全国いたるところに「ネコカフェ」なるものができていて、
けっこう繁盛していると聞く。「ネコカフェ」は、イメージ的にはなんとなく女性が
多そうな印象があるが、男性も少なくないとか。

最近、家族社会学なんかでは「ペットは家族か?」なんて議論があるらしい。
たしかに、自分の友人でも、数年前、年賀状の夫婦の名前の後に
一見子どもの名前かと思われる名前があって、「あれっ、この夫婦って子どもが
いないはずだがおかしいな」と思ったことがある。そこであらためてその友人に
尋ねてみたら、なんとそれが猫の名前だと分かって、思わず微笑んだ記憶がある。

私の猫好きはこうした議論とは無関係なところからきているのだが、
少子化が進んで子どもの数が少なくなったり、都市部での単身者が増えたり、
さらに世の中が「個人化」したり世知辛くなったりして、人との「繋がり」や「絆」の
大切さがあらためて求められたり見直されるようになればなるほど、おそらく
こうした議論がよけいに前面に出てくることになるんだろうなというような
気がする。そして、そんななかでの一種の「安らぎ」をペットに求めるという
構図が出てきたりもするのだろう。

2011/11/16

「なでしこ姫はグローバル結婚市場での『勝ち組』」って??

最近、日本人女性の国際結婚に関して、ちょっと面白い記事を見つけた。

元の記事は日経ビジネスオンライン。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110202/218254/

以下、記事をそのまま引用。

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なでしこ姫はアジアをめざす
日本人女性がもてる3つの理由
なでしこ姫はグローバル結婚市場での「勝ち組」

なぜ、日本人女性は、海外でもてるのだろう。私は、海外で現地の富裕男性と結婚している日本人女性を見るたびに、日本人女性は海外の結婚市場での「勝ち組」といってよいのではないかという思いに駆られる。

今回の調査でも、日本人女性の方は、現地のアジア人が好きだから結婚したという人はいなかった。ましてや、結婚相手を見つけるために、アジアに渡ったという人はいない。逆に、彼女たちから、「どうも夫は日本人女性が好みらしい」とか「私が日本人だから声をかけたと言われた」という
話を聞かされる。

場所はアジアである。欧米なら、エキゾチックで小柄な東洋人の一員として日本人女性が好まれるというのも分かる。米国や欧州で国際結婚している日本人女性は多いが、同じように中国人女性、韓国人女性も多い。モンゴロイドが主体のアジア諸国(東、東南アジアなど)では、背格好や顔立ちが現地の女性とそれほど違っているわけではない(トルコは多少違うが)。差はあったとしても、
個人差の方が大きい。しかし、アジアにおいても、どうも「日本人」女性の人気が高いのだ。

日本人女性は「小綺麗」で「かわいい」
話に聞くところを総合すると、日本人女性がもてる理由は、次の3つに整理することができる。1つは、容姿など外見の要素。2つ目は、態度、性格に関する要素。そして、最後に「日本人」というブランドである。そして、この3つとも、当たり前のことだが、日本にいる限り目立たないし役立たない。周りに日本人女性しかいなければ、本人もそれがもてる要素だと思わないし、日本人男性も気づ
かない。グローバル化が進んでいるとはいえ、比較できるほど多くの未婚の外国人女性が身近にいないからである。だから、海外に出て、初めて、日本人女性は、自分がもてることに気づくので
ある。

まず、1つ目は、その外見である。総じて、日本人女性は「小綺麗」なことである。それは、服装や
化粧など外見がそつなく「手がいれられている」ことによる。香港で言われていたのは、現地の
女性は、普段は脇毛も含めて「むだ毛処理」をしないそうである。私のゼミの中国人女子留学生に聞いてみたところ、日本に来るまではむだ毛処理など面倒なことはしなかったし、周りでしている
女性はいなかったそうである。

また、日本人は、服装も、普段着でも、かわいくファッショナブルな服装で身を固める。高級品
でなくても、髪飾りから靴下まで、かわいいものを身につける。そして、化粧、ヘアスタイルにも
気を遣っている。日本人女性は、世界的に見て、日常生活している自分をかわいく魅力的に
見せる技術に長けているといえる。そのための女性ファッション誌が大量に発刊されている
ことを見れば分かる。

日本にいれば普通の外見をしているだけでも、アジアにおいて、いや欧米においても、現地の
女性と比べて「垢抜けている」、つまり、ワンランク上の女性のように見えるのである(ただ、
韓国や中国の大都市では、日本発の「かわいい文化」が急速に流入しているので、この点での
有利さは長く続かないかもしれない)。

2番目は、性格の要素である。世界的に見て、日本人女性は控えめで男性をたてると言われて
いる。これも、日本にいて、日本人女性とじっくりつきあえば、自己主張がないわけではない
ことが分かるのだが、海外に行くと見方が違うのだ。

日本で普通にやっている家事を海外男性は喜ぶ
例えば、デートしていてランチをどこにするか決めるとする。海外の女性は自分でイタリアンが
いいとか、中華が食べたいとか言って2人で交渉する。しかし、日本人女性は、まず、何がいい
かと男性に聞くのである。そして、男性が-と言ってそれが気に入らなければ、どうしようかなと
あいまいに答える。そして、最後に自分が好きなものを男性に言わせて、それでいいわと答える。日本では、男性も含め、普通のコミュニケーションパターンである。男性ならば決断力がない
男性とみなされるが、女性なら相手をたてる控えめな女性と受け取られるのだ。

また、家事もそうである。日本の女性の家事水準はまだまだ高い。多くの日本人女性は、
主婦の母親に育てられているので、毎日違った献立を作る、そして、部屋を自分できれいに
するのは当たり前である。

しかし、香港やタイなどでは、中流以上の家庭ではメイドが料理や掃除をする。現地の女性は
家事はあまりしないのが普通なのだ。その中で、料理を作ってあげるだけで、それを自分への
愛情から出たものと勘違いする海外の男性が多いのだ。単に自分で食べるついでに食べさせて
あげているだけでもである。

これは、欧米でも同じで、スイス人男性と結婚し、米国で共働きしている私の知り合いは、毎日
違った味付けで夕食を作るだけで喜ばれ、洗濯掃除は夫が全てやってくれるそうである。彼女は、私は、日本では料理が一番下手な女性だと思ったら、米国では一番うまい人になっていたという。

欧米では、夫婦共働きが普通になって久しく家事が合理化されている。普段の食事はレンジで
チン、洗濯は週に一回で済ますという家庭が少なくない。そんな中で、肉を毎日違った味付けで
焼いたり煮たり炒めたりするだけで、感動してくれるそうだ。

つまり、外見にしろ、態度、そして家事にしろ、日本で普通の女性がやっていることをするだけで、海外の男性は喜んでくれるのだ。そして、海外男性は、その喜びを言葉と態度で表現してくれる。
それで、日本人女性は、彼氏が喜んでくれるのでやりがいを感じ、「好循環」が作り出される。
しかし、日本ではそれが当たり前だから、日本人男性はそれだけで喜ぶわけではない。

そして、最後が「日本人」というブランドである。どうも、アジアでは、日本人女性と言うこと自体が
男性の「あこがれ」の対象になっている部分がある。

欧米では、オペラの蝶々夫人や香水のミツコなど、日本人女性は「清楚で控えめ」といった
イメージがついてくる。また、エキゾチックな東洋文化の国として日本は捉えられている。
それは、東洋に関心がある一部の人にとっては、魅力的かもしれないが、一般の人にとって、
日本人女性にブランド価値があるわけではない。

では、アジアではどうなのだろうか。
香港在住の日本人男性に聞いたところによると、香港では、日本人女性のことを「日本妹」と
呼ぶそうである。妹ということで、欧米人のように異質ではなく、また、かわいいということを
表現しているという。

そして、いつまでもつかは分からないが、日本は、アジアの中ではいち早く西洋化を遂げ、豊かに
なった国として一目置かれている。つまり、われわれ日本人が欧米人に対して持つような尊敬と
コンプレックスが混じり合ったイメージと思ってよい。日本人が、車にしろ欧米のブランド製品を
高級品と位置づけるように、アジアでは日本製品は高級品として位置づけられている。

ワンランク上の存在が「日本人女性」
それと同じように、アジアの中では、過去の歴史的経緯があるため、好き嫌いはあるにしろ、
イメージだけは高級なのだ。特に、トルコ人は、ロシアに勝ったアジアの国として日本に対して
好印象を持っている。

男性は結婚相手に、より高いブランドを求める。結婚相手のレベルによって男性の間での評価が決まる面があるからである。国際結婚で言うならば、欧米なら日本人女性と結婚することは趣味の問題となるが、アジアなら、うらやましいという目で見られる、つまり、ワンランク上の日本人女性と結婚できたと言うことで、男性の間での評価が高まるのである。

以上が私の見たところの日本人女性が、国際的にもてる理由である。

もちろん、日本人であることだけでもてるということではないが、特にアジアでは、現地の女性に
比べてたいへん有利であることは確かである。

ただ、1つポイントがある。それは、語学力である。アジアの富裕層の未婚男性は、たいがい
英語を話す。グローバル化している社会では、英語を話せなければ、仕事にならないのだ。
一方、日本語を学ぶ人は、極めて少ない。いくら日本人女性にブランド意識をもっていても、
コミュニケーションをとれなければ意味がない。つまり、アジア人の富裕な未婚男性と知り
合ったり、親しくなったりするためには、現地語か英語能力が必要である。実際に、われわれが
調査したケースでは英語でコミュニケーションをとっている夫婦がほとんどである。

逆に言えば、英語がある程度話せる日本人女性は、アジアでかなりの程度もてると考えて間違い
ないし、きちんとした英語が話せるアジア人男性は、だいたい富裕層に属するからその点でも
安心なのである。

(次回につづく)

2011年2月8日 火曜日
山田 昌弘
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とまあ、こんな記事なんだけど、ちょっと動機が不純でミーハー、また分析も楽観的で眉唾
もののような感じもするけど、面白いので載せてみた。

ここで書かれてある山田先生の分析って、たしかに一理あると思うけれど、あの「パラサイト
シングル」「婚活」で有名な山田先生が書いたものだからこうしてマスコミに取り上げられて
話題になっているだけであって、似たようなことは、私のような研究者も含め、これまで
いろいろな方面の人が指摘してきていることであり、とりたたて目新しい分析でもないような
気がする。

ちょっと疑問に思ったのは、「勝ち組」といっているが、それは具体的に、いったい何をもって
そのように言っているのだろうか?おそらく、ここでいわれている「勝ち組」とは、単に「モテる」
「ちやほやされる」という次元のことを言っているように思えるが。。。(上で書かれてあるような
日本人女性なんて、おそらくほとんどはイメージ上のものであって、いまどきの若い日本人
女性で、そんな人なんて実際はほとんどいない。)

たしかにアジアでは、日本人女性はモテる傾向にあるけれど、日本人男性だってけっこう
モテる。まあ、そのモテる理由が、主に「経済力がある」ということだから、日本人女性が
モテるのとは理由が異なるのだろうけれど。。。

なお、上の山田先生の調査によれば、香港では日本人女性が「日本妹」と呼ばれている
とのことだが、ちなみに台湾でも、中国大陸出身女性が「大陸妹」と呼ばれているのを
ご存知だろうか?

ただ、台湾で中国大陸出身女性に対してこのように形容されているのには、「かわいい」と
いうよりも、どちらかといえば、仲介業者まがい、あるいはあまり望ましくない不法的な形で
台湾にやってきて、台湾人男性のある種「奴隷」になるような大陸女性たちのことを指して
言っているような意味合いが強い(かつてアメリカで日本人女性が“yellow cab”といわれて
いたのと同じように)。したがって、香港で今、日本人女性に対して「日本妹」といわれて
いるのにも、「かわいい」以外にももしこのような意味合いも込められているのだとすれば、
香港男性の日本女性に対する“もうひとつの”イメージ、また一種の日本と香港の経済的・
社会的な関係性の逆転や変化を象徴していることの現れとも読み取れ、それはそれで、
興味深い。

ちなみに台湾は、ここはアジアでも国際結婚の日本人男女が多く住んでいる地域であるが、
日本人女性×台湾人男性、日本人男性×台湾人女性の結婚もとても多い反面、離婚もかなり
多い。現に、私がかつて聞き取りをしたことのある台湾の某日本人組織の役員の話によると、
離婚の相談もたいへん多く寄せられ、今、離婚相談もその組織の主要業務の一つに伸し
上がっているそうなのである。

国際結婚というものは、今のグローバル化の時代、一見、華やかに映る側面もあるのかも
しれない。しかしながら、日本と文化的に近いといわれる台湾人との結婚でさえ、このような
状況なのであるのだから、言葉や文化、習慣や考え方の差が大きい者同士の結婚という
ものは、そのようなイメージとは裏腹にいろいろ厄介なことも多い。
ゆえに、ただ恋愛や憧れの対象として見ているとか、付き合うだけならともかく、日常生活と
なると、なかなか長続きしないことも多いという現実も決して忘れてはならないだろう。

山田先生には、こうした国際離婚の現実についてもしっかり調査して取り上げてほしいと思う。

ただ、最近も、日本女性の平均年収が300万以下の人が7割を超えたということがニュースで
報じられてように、日本で希望する仕事に就けず、正社員になれず、かといって自分の希望や
欲求を満たしてくれるような条件のいい男性にもなかなか出合えないということで辛酸なめて
いる日本女性たちはたしかに増えている。

それだったら、アジアに行った方が「日本人女性」ということでモテてるしちやほやされることは
たしかなので、その結果、現地の富裕層の男性と知り合って結婚に至るチャンスや可能性も
高くなる。今はネットも発達しているし、アジアでも都市部に限れば日本と比べてそれほど生活も
不便ではない。それに、現地人と結婚すれば、外国人とくに女性が海外で長く安定的に生活して
働く上で、何だかんだいっても、やはり一番有利で確実な滞在資格となる配偶者ビザも取得
できる。ということで、日本で辛酸なめているんだったら、アジアに行くという選択肢も、今の
多くの日本人女性にとっては、グローバル化する社会のなかでの一種の賢い生存戦略といえる
のかもしれない。

2011/11/06

蛇を食べる猫? けれどやはり猫はカワイイ

いまさら言うまでもないけれど、私は猫が大好き。
猫ほど可愛い動物はない。お顔のパーツ、姿かたち、鳴き声、しぐさ、とにかく全てがカワイイ。
リスやウサギなんかもカワイイけれど、ねこは本能で生きている感じのところがまたいい。

けれど、猫は蛇を見かけると放っておけないらしく、蛇とじゃれあって遊ぶどころか、
なんとyoutubeでカワイイ猫が蛇を完食する姿を見つけてしまった。





たしかに思い出してみれば、昔、自分の実家の玄関の入口のところに、
猫が蛇を置いていったことなんかあって、びっくりしたことがあったな。
また、近所の野良猫が何かとじゃれ合っているなと思って近づいてみると、
なんとそれが蛇だったり。。。

猫にしたら、蛇なんて、おもちゃか紐にしか見えないんだろうか。。。
こうあらためて考えてみると、猫って結構野生的な動物なのだろう。
(まあ、いうまでもなく猫は肉食動物だし。。。
でも、やはり私の中では気持ち悪い蛇とカワイイ猫は結びつかない。)

けれど、そんな猫でも、やはり猫はカワイイ。私は猫が大好きなのである☆

2011/10/19

非生産的な大学教員採用人事における「カラ公募」

10月も半ばを過ぎ、自分の知人や周辺でも、早いところでは、もう来年の大学教員人事の
決定状況がちらほらと聞こえてくるようになりました。

大学教員の採用は、一般企業などの採用とはかなり異なった側面をもっております。
もちろん、公募によった場合、応募者の中から、さまざまな要素を勘案して第一位になった
者が候補者として選考委員会から人事委員会に推薦され、さらにそこから教授会にかけられて
採用が決定されます(私立大学の場合は、教授会の後、さらに理事会にかけられます)。

実際、選考にあたってどの点にポイントが置かれるかは、大学ごとでの一律な基準などは
もちろんなく、また、同じ大学内でもポストによってかなりケースバイケースです。さらに、
当該人事において採用の決定権を持っている人物の主観や判断基準によってもかなり左右
されやすいのは、むしろ一般企業などの採用人事以上かもしれません。

大学教員人事は、かつては学会など業界のルートや、当該大学の教員の人脈を通して採用が
行われることが一般的だったのですが、現在は文科省の指導によって、大学教員人事は
基本的に公募によらなければならないとされており、最近は、「JREC-IN」という、それ専用の
サイトまでもできております。また、昨今は、大学基準協会による大学評価との絡みでも、
公募で採用する方針を採らないといけないような動きになってきております(そうでないと、
大学評価の際に、「勧告」対象になりかねません)。

このように、現在では、応募している大学の情報がインターネットを通じて行われることが多く
なりましたし、募集先の大学も自分の大学のホームページに載せることが一般的になりました
ので、全国のどこの大学でどのような公募が出ているのかの情報は、以前に比べればかなり
容易に把握できるようになりました。

しかしながら、厄介で、かつ広く問題となっているのは、どこからどこまでが「本当の」公募なのか
募集情報だけではなかなか判断がしにくいこと(ただし、条件がやたら細かい、募集している
専門分野があらかじめけっこう限定されている、応募書類に推薦状を要求してくる、書類選考の
段階から健康診断書の提出を求めている、募集期間が短いなどといった場合は、「カラ公募」の
可能性大です)。実際、すでにターゲットとしている候補者が存在するにもかかわらず、最近は、
文科省から「公募によって採用せよ」と行政指導が入っていることもあり、見掛け上の公募、
つまり「カラ公募」が後を絶ちません。実際、私の経験も含めて判断すると、公募している教員
ポストの多くは、多少の程度の差はあっても、この「カラ公募」に該当するといっても過言では
ないと思います。

「カラ公募」するくらいなら、最初から「ウチは、こうこうこういう人が欲しいから、この人を採用
する」と公言し、「一本釣り」した方がはるかに分かりやすく公平だと思うのは何も私だけでは
ないでしょう。

「カラ公募」ほど、応募側と採用側の双方にとって非効率なものはありません。

なぜなら、応募者は面倒な応募書類を手間暇かけて作成して郵送します。ですので、
履歴書の写真代はもとより、論文のコピー代、郵送費用などもけっこうバカになりません
(何しろ、大学教員への応募書類ほど、応募先に合わせて書類を作成しなければならない
ものはありませんので)。

一方、採用側は、すでに候補者がいたとしても、一応、形式的なものにせよ選考委員会なる
ものを組織して、決して少なくない時間を人事に注ぐことになります。そのためには何度か
会議も開かなければなりませんので、本来なら教育や研究に注ぐべきはずの時間を削いで、
結果的に教員採用人事にあれこれ手間暇をかけることになります。おそらくこんな現状も、
昨今の大学教員が学内行政や雑務によけいに忙殺される一つの大きな要因になっている
といえます。

それに、仮にもともとターゲットとなっていた候補者が「カラ公募」によって採用されたとしても、
長期的に見ればその人のためにもならないように思います。大学教員をしていると分かる
のですが、選考委員会やその周辺のメンバーの中には、「カラ公募」をよく思っていない人も
少なからずおります。ですので、採用されてからも、どこかでそのことが話題に上ることも
少なくありませんし、最初からその人が色眼鏡で見られる場合もあります。

大学教員採用人事が公募によって行われること自体は決して悪いことではありませんし、
私は、むしろそうした傾向はもちろん望ましいと思います。ですが、実際は、「形だけの公募」
「名ばかり公募」では意味がありません。各大学が、無駄な「カラ公募」をしないようにする
ことはもちろんですが、文科省にも今度はそうした「形だけの公募」「名ばかり公募」を
何とかして排除する手立てやチェック機能の考案をお願いしたいものだと思います。

2011/09/07

対照的な北海道と沖縄への観光客と人の流れ

数日前から調査のために石垣に来ています。

今回、石垣には羽田から那覇を経由して石垣入りしました。
そこで、改めて感じたのが、羽田空港と那覇空港での国内観光客のすごい人の列。。。
夏休み最後の時期ということもあってか、大学生っぽい人たちの集団が目立ちました。
彼らの陰に隠れてしまっているせいもあるのでしょうが、ビジネス客や外国人は、
どうやらあまりいなさそう。羽田空港でも、那覇空港でも、沖縄本島でも石垣でも
感じたのですが、沖縄はやはり日本本土の人から人気のある場所であるということ。
今の沖縄は、年中いつ行ってもうざいくらいに本土の観光客で溢れかえっています。

ここであらためて、人々は観光に何を求めるかといえば、それはひとことでいって「非日常」。

つまり、人々が旅に対して求めるのは、普段の生活では目にすることができないような
風景や体験。それゆえに、日本人の多くは、本土とは地理的にも文化的にも気候的にも
異なる沖縄が憧れの観光地となるのでしょうね。そしてまた、沖縄にアジアに通じるものを
求めたり、あるいは見出す日本人もまた多いのです。

逆に、沖縄と同じ国内有数の観光地である北海道は、新千歳空港や新千歳行きの便に
乗れば分かりますが、日本人はビジネス客の姿が目に付くのと、観光客は圧倒的に台湾、
香港、中国、韓国などアジアの人々。

さきほどもいったように、人々が観光に求めるのは「非日常」。
つまり、アジアの人たちにとって北海道が人気の観光地となるのは、
北海道にはこうした国や地域では日常的になかなか体験できない食べ物であったり、
自然や風景であったり、モノがあったりするため。
以前、何かの意識調査で見たことのあるデータでは、台湾をはじめアジアの人々が
日本観光に求めるのは、「食べ物」「買い物」「温泉」「雪」が上位に来るのだそうです。
それと、清潔で整然とした街並み。

私が以前、ある台湾人のブログを見ていたら、その人は北海道に旅行に行ってきた
ようなのですが、富良野の風景がブログのトップページに飾られていて、
なんと北海道を「亜洲的欧洲(アジアのヨーロッパ)」とまで形容していました。
最近は、台湾やマレーシアなどで売られている北海道ガイドブックにもそのような文言が
散りばめられていて、「なるほど、アジアの人たちは北海道にヨーロッパを見出している
のだな。台湾人とかはヨーロッパが好きらしいけど、北海道は同じアジアで気軽に行ける
ヨーロッパというように捉えられているのだな」と感じた次第です。

このようにアジアの人たちにとって北海道が人気のある観光地となっているのですが、
それでは国内観光客に人気のある沖縄については、アジアの人たちは
どのように思っているのでしょうか?

以前、私は数人の台湾人に「沖縄は台湾から近いよね」というようなことを言ったら、
「沖縄はあそこは私たちが求める『日本』じゃない」「えっ?沖縄?あまり興味なーい」と
いったような反応が立て続けに返ってきました。
まあ、台湾人にとって沖縄は風土的に似たようなところですからね。

ならば、「そのチャンスがあるなら沖縄に住んでみたい?」って聞いたら、
それでも彼らは「えーっ」というような感じで、首を横に振ったのです。

観光なら人はそこに「非日常」を求めるから沖縄にはとくに憧れないというのは
分かるんだけど、「住む」「暮らす」となったら、台湾と風土的に近い沖縄だったら
逆にいいんじゃないのというような趣旨のことをいったら、「だって、面白いものが
ないんだもん」「沖縄は田舎で刺激が足りないし何にもない」というような反応が
返ってきました。なるほど、彼ら/彼女らの消費生活に満足できるようなところではない
ということなのでしょうかね。この点、北海道なら、自然もあるけれど札幌のような
全国有数の大都市もあるので、自然も楽しみながら買い物もできますしね。
なるほど、彼ら/彼女らの欲求を満たすわけです。

すでに国が大きく発展して、富裕層や中間層が台頭し、国民の所得水準も向上し、
消費社会化してしまった今の台湾にとっては、風土的に似ているからというような要因
だけにとどまらず、こうした意味においても、とくに若い世代には、沖縄はあまり
魅力的なところとは映らないのでしょう。リゾート地ということなら、台湾人とか
アジアの人たちにとっては沖縄よりもプーケットやバリ島、そしてマレーシアの
コタキナバルなんかの方がずっと人気が高いようなのです。
(ちなみに、不思議なことに、台湾で台湾人向けに募集されている沖縄ツアーの
観光コースには、日本本土の観光客には定番の「海」「リゾート」といった
観光コースはほとんど出てきません。)

一方、単に北海道と沖縄における観光客の多い国・地域の違いだけでなく、
北海道と沖縄では、アジアからの観光客の旅行形態や滞在形態にも違いが
見受けられます。

最近は、北海道で飲料水を目当てに土地を買い占める中国人も増えているし、
アジアからの個人旅行者やリピーターも非常に多い。
沖縄におけるアジアからの観光客は団体旅行客が多いのに対し、
北海道では今ではアジアからの個人観光客が増えています。

このように、沖縄は国内観光客に人気のある観光地または長期滞在先であり、
逆に、北海道はアジアからの人々に人気のある観光地または長期滞在先となって
いるのですが、北海道側としては、沖縄に国内観光客が押し寄せたり移住者が
増えるのを羨ましく思っているようで、逆に沖縄側は、北海道に台湾や中国など
アジアからの観光客が向かうのを羨ましがっているようなのです。
石垣では、「北海道はいいですね。石垣にももっと台湾人観光客が来てほしいと
思っていて、最近、台湾側でプロモーションをやったりもしているんですけど、
どうも北海道が台湾人に人気があるようで。。。」といった“台湾への片思い”の
声がよく聞こえてきます。

どうやら、ないものねだりなのが人の常なのですね。
でも、そうかといって今度は石垣や八重山がもう少し台湾人が「日本」に対して
求める要素を観光で提供すればいいかといえば、それでは石垣や八重山という
地域を日本本土に対して差別化することはできないし(それにまず、そもそも
風土や文化の違いから完全にそうすることは無理)、今度は日本本土の観光客が
減ってしまいかねない。なかなか難しい問題です。

2011/07/12

岐路に立たされる「日本型お嬢様大学」

戦前から戦後のある一時期まで、女性が高等教育を受けることに対してその途が限られていた
日本では、「お嬢様学校」という存在をありがたがる傾向にあります。
一般に、「お嬢様学校」の多さ、またそれがステイタスという発想が強い地域であるかどうかは
人口や富裕層の多さにも比例しますので、やはりそうした層が厚く、「お嬢様学校」がマーケット
として成立しうるような首都圏や関西(京都や神戸)といった大都市圏ほどその傾向が強いと
されています。

一口に「お嬢様学校」といっても、そこで話題の対象に上ってくる学校名などをみると、
何をもってそう定義するのかについてはなかなか統一した見解がなく、人によりさまざまですが、
多くの人の意見を参考にすると、だいたい次のような基準に該当するところが世でいう「お嬢様
学校」に該当すると考えてよいでしょう。

<最低限の必須条件>
①キリスト教主義の学校である(この場合、カトリックかプロテスタントかは問いません)
②歴史が長く伝統がある
③小学校か中学校から大学まで持っている

<その次の必須条件>
④祖母、母、娘、姉妹が揃ってそこの学校の卒業生であるケースが多い
⑤卒業生に著名なOGがいる
⑥その学校が所在する地域での評判がよく、愛されている



「お嬢様」の定義には大きく二通りあると思われます。一つは、財閥や旧家のご令嬢といった
意味での資産家のお嬢様、そしてもうひとつは、家柄はそこそこだが、堅実で保守的な親に
大切に育てられたお嬢様(箱入り娘)です。

前者は、大学でいうと、伝統的には関東のK大学、G大学、S女子大学、関西のD大学、
K学院大学などに多いとされますが、後者は主に、関東のそこそこ知名度のある
キリスト教系の女子大のほぼ全てと、首都圏や関西以外の地方にある(地方といっても
比較的大きな都市に限定されますが)上記6つの条件を備えたキリスト教系の伝統ある女子
大学がこれに該当します。

このように、同じ「お嬢様」でも、前者の財閥や旧家などの資産家のご令嬢といったタイプの
お嬢様大学は共学の大学もそこそこ存在し、最近は旧帝大クラスの難関国立大学にも
そうしたタイプのお嬢様が増えつつありますが、後者の保守的な親に大切に育てられた
箱入り娘タイプのお嬢様が多い大学は、ほとんど女子大に集中していることが分かります。
こういう後者のタイプの女子大を私は「日本型お嬢様大学」とみなしています。

これら後者のタイプの女子大学は、総体的にみて、どちらかといえば、よくいえば温和で
穏やかな校風を持っていて、学生を大切に育てますが、悪くいえば、学生に何でもお膳立て
して過保護に育てる傾向にあります。また、大学側も、「これからの時代に対応できる女性を
育成する」などと謳い文句をうたっていても、根本のところでは良妻賢母志向で、また時には
時代錯誤と思えるほど意識が古いのは今もあまり変わっておりません。ですから、そうした
大学に学んでいる女性たちも、周りから何かかっちりしたものを与えられて、その中で物事を
こなしていくという意味での能力は決して低くはありませんが、自ら主体的に物事を考えて
行動し、周囲を取りまとめて行くような「自発性」「リーダーシップ性」を持った女性というのは
なかなか育ちにくく、さらにいえば、同じ女子大学でも、自由や革新性、自主性を尊重する
プロテスタント校よりも、保守的でガードが固いカトリック校の方がその傾向がより強いように
思われます。

高度経済成長期~バブル期の頃のように、企業が大量に一般職OLを採用していた時代は、
女性社員には与えられたものを率なく無難にこなす能力が求められましたし、そうした女性
たちは正社員である自社の男性と結婚して専業主婦になることがよしとされていたので、
こうした後者のタイプの「日本型お嬢様大学」はそれなりの機能や役割を果たしていた
わけです。

しかし今のように、不透明で変化が激しく、女性にも即戦力として周囲の意見を取りまとめ
ながらリーダーシップを発揮していくことが求められる時代においては、こうした後者の
タイプの「日本型お嬢様大学」が果たしてきた役割というのは、ほぼその使命を終えたと
考えられます。(前者のタイプの旧家財閥・資産家型の令嬢であれば、やはりコネで
押し込んでもらえるだけの家柄からくる強さからがあるので、雇用の変化による影響は
今のところそれほど受けずに済んでいるのでしょうが。。。)

ちなみに、日本のカトリックの「お嬢様学校」というのは、ほとんど小中学校から持っている
のですが、初中等教育までなら、いってみれば与えられたカリキュラムをいかに忠実に
こなすか、教科書のようなテキストによって与えられた知識をいかに吸収していくかが主に
なりますので、規則にしっかり縛られるような、そして過保護すぎるくらいの教育でもよいと
思います。

しかし、高等教育段階である大学では、そうした何か枠組みをあらかじめがっちりつくって、
そのなかに守るような感じであてはめていくような小中高までの教育と同じような方針や
認識では、学生の自発性などというものは到底育つはずもないのです。
しかも、そうした教育方針のもとで育った女性は概ね依存心が高く打たれ弱いですから、
それこそこれからの時代に求められる女性というのはなかなか育ちにくいのでしょう。

また、こうした理由が、世間で「お嬢様学校」といわれる女子校において、女子大に併設
されている附属の(小)中高から、かつてのように、そのまま上の大学に上がる生徒が
少なくなり、さらには外部からも優秀な女性が集まりにくくなって、女子大の相対的な
レベルや質の低下を招いている一因にもなっているものと思われます。実際、今の
日本のこの「女子大厳冬の時代」においては、女子大全般が凋落傾向にあることには
変わりませんが、そのなかでもよりその傾向が大きい女子大に共通してみられる傾向
としては、主に①学長のリーダーシップをはじめ、経営陣が概して必要以上にマイナス
志向というか保守的で新しいことを好まない、②学校側も過去の伝統や栄光に胡坐を
かいている、という点が指摘できます。

主にこんな要因が、「日本型お嬢様大学」の低迷に繋がっているように思われるのですが、
それにもかかわらず、日本ではなぜ未だにこういうタイプの女子大学をマスコミが持ち上げ、
また実際に世間でもありがたがる風潮にあるのか、私にはよく理解できないのです。

2011/07/09

留学のハードルが低下している今、あらためて留学することの意味を問う

最近、メディアでは、アメリカに留学する日本人の減少がしきりに報じられています。
ハーバード大学でも、中国や韓国からの留学生は急増しているものの、日本人はそれに比べて
数えるくらいしかいなくなっていることから、大学側が日本で留学説明会を行ったりしていますし、
最近は日本の政府側も「若者よ、海外に目を向けよう、海外に出よう」などと、しきりにアメリカ
留学を促すような展開に出ています。(NHKなんかも、しきりに「ハーバード白熱教室」を放映
しているのも、国民とりわけ若者のアメリカ留学やハーバード大学自体への関心を高めようと
必死になっているためです。)

たしかに欧米圏への留学は最近は減少傾向にあるものの、目をアジア圏に転じてみると、
逆にアジアに留学する日本人は増加傾向にあるのです。しかし、このような現実をなぜか
日本のメディアはあまり伝えようとしません。(こうした現状をみると、なんだかんだいっても、
日本のメディアや政府側の欧米を上位とみなす認識は、まだまだ変わっていないんだななんて
思ったりもします。)

まあ、それはともかくとして、アジア圏、とくに中国や台湾など中国語圏に留学する日本人は、
アメリカなど欧米圏に留学する日本人が減少しているのとは対照的に増える傾向にあります。
アジア圏(ここでいうアジア圏とは、とりわけ東アジア・東南アジアを指しますが)では、その
特有の歴史的・政治的な背景やそれに絡む社会事情と関係して、国内の高等教育機関が
拡大発展してきたのは、概ね90年代に入ってからといえます。アジア圏においては、自国民の
高等教育は主に欧米への留学や植民地時代の宗主国への留学によってなされてきたため、
国内の高等教育機関の整備は戦後しばらくはなされてきませんでしたし、長らくそういう状況に
ありましたので、留学生受け入れのための制度が整ってきたのも、せいぜいこの20年弱の
間でしかありません。

たとえば、中国では、外国人留学生の受け入れが正式に始まったのは改革開放が実施された1978年からですし、台湾においても、留学生の受け入れに向けた制度が整い始めてきたのは、1990年代に民主化が加速化する中で、国内の高等教育機関の「本土化」が進むようになって
からです。こうした事情から、中国や台湾をはじめ、アジア圏の国や地域では、「外国人留学生」
といった場合、そこで正式に入学して課程を修了して学位取得を目指す留学というよりも、
いわゆる現地の語学を習得することを目的とする留学生が現地の政府側においても長らく
想定されてきましたし、実際、アジア圏に留学する外国人留学生は、ほとんど語学習得を目的
として留学するパターンが主体でした。(とくに日本人の場合はよけいにそうでした。)

しかしながら、近年の傾向として、アジア圏でも、かつてのように語学留学だけでなく、現地の
大学や大学院に入学する日本人が増えるようになってきています。たとえば、かつて私が留学
したことのある台湾でも、私が留学した1990年代後半当時は、現地の大学や大学院に進学する
日本人はごく少数でしたが(さらに、この当時はまだ、台湾の大学・大学院に留学したいと
思っても、まず最初は政府教育部指定の外国人向けの中国語コースに入学することを半ば
義務付けられておりました)、最近は、かなりの割合で台湾の大学や大学院に進学する
日本人が増えています。

それにはいくつかの要因が考えられます。とりあえずざっと思いつくのは、たとえば、①台湾に
関心を持つ日本人が増えてきた、②現地に日本製品が溢れ、日本と変わらない生活ができる
ようになってきた、という要因以外にも、③台湾の政府が外国人留学生受け入れに積極的になり、
外国人留学生受け入れのための政策が整備されるようになってきた、④ビザ取得のための
条件が引き上げられるようになってきたが、その際に現地の大学や大学院を出ていれば有利
になる、ことなどが考えられます。

このように、台湾の大学や大学院に進学して学位取得を目指す日本人が増えていること自体は、以前では考えられなかった展開でもあり、留学による現地での滞在や生活を通じて、台湾社会を
良くも悪くも正しく理解する日本人が増えることに繋がっていると考えられる点で、私個人としては
おおむね好意的に捉えています。

しかし、現地の大学や大学院に入る日本人が増えたからといって、必ずしも望ましい展開ばかり
とは限りません。実際にふたを開けてみると、台湾の大学や大学院って、外国人留学生とくに
日本人はかなり簡単に入れますし(今はどうかわかりませんが、以前は、台湾で最高学府と
される台湾大学でも、日本人は簡単な中国語の試験と書類選考だけで入れました。専攻に
よっては、中国語の力すらろくに問われない場合も多々あります)、それだけでなく、何と台湾の
大学院ありながら、日本語で学位論文を書いて修了できる大学院もけっこうあるのです。

実際、自分のまわりだけでも、台湾で2~3年中国語留学をした後に(人によってはそれ以上)、
台湾の大学院に進学した人、たとえば、台湾の国立T大学、私立TG大学、同じく私立TK大学
などで、修士の学位論文を日本語で書いて修了した人が複数おります。
(台湾に中国語を学ぶために何年も留学しておきながら、日本語でしか学位論文を書けない
なんて、かえって情けないことだと思いますが。。。英語だったら、一応、グローバル言語なので
まだ分かりますけどね。日本語で学位論文を書いて修了できる国なんて、おそらく台湾だけだと
思います。ちなみに、もし私が採用担当者なら、何年も留学しているにもかかわらず日本語で
しか学位論文を書けないなんて、そんな人は絶対に採用しません。)

しかも2000年代以降の台湾では、日本で博士を出たけれど国内に適当なポストを見つけられ
なかった日本人が大量に台湾の大学に就職する時代になっていますから、現地に留学した
といっても、実際、留学先の担当教員やあれこれ世話を焼いてくれる受け入れ教員が
日本人(もしくは日本で学位を取った日本語ペラペラな台湾人教員)というケースが普通で、
実際、それはかなり多いです。したがって、台湾に留学したといっても、指導教員は台湾の
大学に奉職している日本人の先生で、学位論文審査のメンバーはみな日本語ができる先生
というケースも多いのが現状なのです。

おそらくこうした事情をよく知らない人たちは、台湾に留学して台湾の大学や大学院を終わった
というと、「じゃあ、中国語ができるのね」と思うのでしょうが、概ね90年代半ば以前に台湾の
大学や大学院を修了したのであればともかく、最近は、このように日本語で学位論文を書いて
修了できる大学院も結構出てきていますから、台湾に留学したからといって中国語ができる
とは必ずしも限らないのです。

以上のような事情もあって、私は台湾に留学している日本人の質は、総体的にみてあまり高い
とは思いません。まあ、これは別に台湾だけに限らないのかもしれませんが、台湾の場合は
とくに日本人は何かと優遇されていて周囲が助けてくれますし、これまでに述べてきたように、
台湾人学生にとっては難関とされる大学でも、日本人はそれに比べてかなり簡単に入れること、
それと入ってからも日本語で学位論文を書いて修了できる大学院も少なくないことから、
さまざまな意味で、日本人が留学する上で最もハードルが低い国なのではないかと思います。
(ちなみに、90年代後半に台湾に留学していた時、クラスメートの韓国人が「日本人はうらやま
しい。だって、日本語教師のバイトがいくらでもあるけど、韓国語を教えるバイトができるところ
なんて、それに比べたらほとんどないからね。あなたがた日本人は優遇されている。」といって
いたのを思い出します。)まあ、こんな要因も、台湾で大学や大学院に入る日本人が増加して
いる一つの背景になっているのかもしれません。

英語圏では、さすがに台湾のように日本語で学位論文を書いて修了できるというような事例は
まずないとは思われますが、たとえば、私が知っている人で、オーストラリアの有名国立大学で
Ph.D.を取得したある女性の場合、先方での指導教員は日本人と結婚していて日本語がほぼ
ネイティブの先生であり、またPh.D.論文を書くにあたって、翻訳・校閲を担当してくれる人が
付いていてくれたのだそうです。彼女自身も、「だからオーストラリアで学位を取得できた」と
言っておりました。

しかも、海外の大学・大学院に留学する日本人に関してもうひとつ疑問に思うのは、この女性に
限らず、先ほどの台湾の例も含め、学位論文のテーマは、ほとんどの場合、なぜか「日本」に
かかわるテーマなのです。こういうことを指摘すると、「海外から日本をみる」ということに意味が
あるのだとおっしゃる人が少なくないのですが、「日本」のことを研究するのであれば、別に
とりたてて海外である必要はないように思うのは私だけではないでしょう。

このような事例をよく聞くと、今はグローバル化の時代で、しかも各国や各大学では留学生の
受け入れに積極的になっているので留学がしやすくなったことは事実ですが、昔のように留学
制度がまだあまり整っておらず(大学等を通じた交換留学を含め)、しかもインターネットも
発達していなかった時代の方が、たしかに海外とりわけアジアに留学する日本人にはちょっと
「変わった」人が多かったのだろうけれど、留学することのハードルや、またそれによって
得られるものは今よりはずっと多かったように思います。

なぜなら、少なくとも一昔前くらいまでは、留学に行く前も自分で手紙や電話を通じて現地と
交渉しなければならなかったため、とくにアジア圏においては留学に行く前段階すら容易に
事が進まないなんて普通によくあることだったし、また、現地に行ってからも、とにかく日本語を
あまり使わずに生活せざるをえなかったし、もちろん、現地の語学をマスターしなければ現地の
大学や大学院に入って学位を取得するなどということは普通考えられなかったからです。
そのようなわけで、同じ1年、2年の留学でも、その中身はけっこう濃かったものでしたが、
今の1年程度の留学なんていうものは、おそらく実質は一昔前の半年分にも相当しないと
思います。

(同じようなことは、日本人以外の外国人にも同様に言えることかもしれません。たとえば、
私の知人で2000年前後に日本の博士課程在籍中にアメリカに留学したことのある香港人の
先生は、その約10年後に今度はサバティカルでアメリカに行きましたが、以前に比べて現地に
中国人が増えているせいか、現地ではほとんど中国人や中華系の人とばかり過ごしていて、
英語も最低必要限程度にしか使わなかったし、インターネットも発達している時代なので、
過ごした年数自体は前回と同じでも、前回の方がアメリカで過ごした時間がずっと長かった
ように感じられたと語っておりました。)

このように、留学事情の変化を追ってみると、留学することのハードルが低くなり、また留学した
からといって何か特別に「すごい」とか、とりたてて「現地の言葉ができる」というような時代でも
なくなった今、アメリカに留学する日本人が減ったからといって、何もそんなに騒ぎ立てるほど
憂うことではないように思います。私たち、とくに日本人は、留学を何か特別にすごいこととか、
留学したから語学ができるというような認識からそろそろ転換というか脱却を図らなければ
ならない時期に来ているのであり、そうしたなかで、留学することの意味やメリットとは何なのか、
あらためて問われる時代になってきているのです。

2011/06/26

大学全入時代において日本の大学は「出口」を厳しくせよ

早いものでもうすぐ7月。今年も半分が過ぎようとしております。
7月になれば、大学は夏休みを迎えると同時に、来年度の大学受験生(高校3年生)を
対象としたオープンキャンパスの時期を迎えますが、早いところでは、もう来年度の
入試に向けて本格的に動き出すところも出始めてきます。

日本では、少子化に伴う大学受験人口の減少が見込まれるにもかかわらず、
90年代以降、大学の新設または学部学科や定員の増設が相次いだことのツケもあり、
今や私立大学はいうまでもなく、国立大学でも、定員を確保するために、さまざまな種類の
入試を行って学生の確保に力を注がざるを得ない時代になっております。
(東大でさえ、今やオープンキャンパスなるものを実施する時代ですからね。)

さまざまな試験制度により、多様な学生を確保すること自体は別に悪くはないのですが、
今の日本の大学では、実質的に無試験に近い推薦入試・AO入試による入学者が
年を追うごとに増え、とくに私立大学においては、その全国平均値がすでに50%を超える
ようになっております。かつて高偏差値で有名だった早稲田大学政治経済学部でも、
定員の約半分が指定校・推薦・AOなど、いわゆる無試験による入学者とされています。
ちなみにウチの大学は、現在のところ、推薦比率は姉妹校推薦も含め4割以下に抑えて
あるのですが、それでも、推薦入学者の学力にバラツキがあることは、ときどき教員の
間でも話題になりますし、実際、昨年の教授会はそれで議論が長引く場面もありました。

最近、企業の人事担当者などの間でホットな話題となっていて、しかも頭を悩ませている
大きな問題のひとつは、一流有名難関大学の学生だからといって、そのレベルが信頼
できなくなってきており、採用活動に莫大な負担と労力がかかるようになっていること、
なんだそうです。

日本の大学は、概ねバブル期までは「受験戦争」といわれたように、大学入試が熾烈でした。
「入るのは難しく、出るのは易しい」といわれていたように、厳しい入試を経た後の反動も
あってか大学は「レジャーランド」とまで形容され、そうした観点からさまざまな批判も
ありました。けれども、少なくとも、大学入学時点でのフィルターがそれなりに機能できて
いたので、社会や企業は、その時点での基礎学力(つまり入試偏差値)を主なよりどころと
して当該学生を評価してきましたし、またそれができてきました。

しかし、今や、推薦入試やAO入試によって入学する学生が一流有名難関大学でも
増えていることもあり、そうした大学の学生でも、中学生レベルの英単語や構文が
分かっていない、漢字が書けない、文章が書けない、簡単な計算ができないといった
ケースが珍しくなくなっているという声をあちこちで耳にします。つまり、入試偏差値が
あてにならなくなってきていることから、これまでのように、高偏差値の大学の学生
だからといって優秀な学生というように判断することが難しくなっており、そのため、
かえって出身高校の学力レベルを判断材料とせざるを得ないケースや、エントリー
時点で入学種別を問うようなケースも増えてきているのだそうです。
(つまり採用人事担当者側も、予備校を通じて世間に出ている大学の偏差値を信用
しなくなってきたということですね。ちなみに、企業の採用人事担当者は、多くの大学で
「偏差値操作」を行うようになってきたということもさすがによく知っております。)

たとえばアメリカなどでは、よく「入るのは易しく、出るのは難しい」といわれてきました。
日本は少なくてもバブル期まではこの逆のケースだったわけですが、しかし、今や
日本の大学は、「入るのも出るのも易しい」という状態になってしまっているわけですから、
企業の大学つまり高等教育に対する信頼性が低下しているのも無理もないのかも
しれません。たとえ推薦やAO入試で入学する人が増えても、その分、アメリカの
大学生並に勉強しなければ授業に付いてこれないような、出口が厳格なような
システムにすれば、まだ展開は異なると思うのですが、今や、入口が易しくなった
にもかかわらず、出口も従来通り易しいままであれば、高等教育に対する信頼が
なくなるのも当然といえば当然でしょう。

大学生の就職難といったとき、メディアでは、不況など経済的な側面ばかりが強調
されてこの問題が取り上げられやすいのですが、大学進学率が高校卒業生の50%を
超えている今、バブル期までであれば、大学にとても行けるようなレベルになかった
生徒まで大量に大学に行くような時代になっている。このことが、大学生の就職難を
生み出している主な背景の一つにあるというような側面にも、もう少し着目されて
議論されていく必要があるように思います。

一方、大学側も、定員確保のためとはいえ、基礎学力に欠く学生を入学させたなら、
少なくとも社会に出すのに恥ずかしくないレベルにまで学生を鍛え上げ、学力を担保
させた上で社会に出すようにする責任があります。いまどきの日本の大学は、総じて
学生に甘いですが(どうも、学生に「優しい」のと「甘い」のをはき違えている教員も
少なくないのがまた問題なのですが)、日本も大学のユニバーサル化時代を迎えた今、
かつてのように入口を難しくするのができないのなら、せめてアメリカのように、
今度は出るのを難しくすることを本気で考えなければならない時期に来ているように
思われます。そうでなければ、定員自体は確保できたとしても、「大学」として本来の
機能を維持させることが難しくなり、そうしたところから日本の大学は崩壊していって
しまうように思います。

2011/06/19

日本の女性は「相対的貧困」に陥るリスクが高い

最近、私の担当している学部2年生が多い授業で、「相対的貧困」について取り上げました。

ご存知の方も多いとは思いますが、「貧困」の定義には大きく二種類あります。

まず、ひとつは「絶対的貧困」。
これは、たとえば飢餓や餓死寸前にあるアフリカやアジアの途上国の人々の様子を想定
すればお分かりいただけるように、生命の危機に瀕している状態の貧困のことを指します。
一般的に「貧困」といった場合、とりわけ日本では、多くの人々の頭の中に浮かんでくる
「貧困」のイメージはこの「絶対的貧困」です。

これに対して、もうひとつは「相対的貧困」。
「相対的貧困」とは、一般的に、その国の国民であれば、普通この程度の生活レベルは
享受できるだろうと多くの人々に認識されているレベルの生活水準を享受できない人々、
つまり、所得水準でいえば、その国の平均所得の半分以下の所得水準にある人々の
ことを指します。現在の日本国民の年間平均所得が445万程度といわれておりますので、
日本では、だいたい年収200万程度以下の所得しかない人々がこの「相対的貧困」に
該当します。

今日の日本では、いまさら強調するまでもなく、格差、格差といたるところで話題に上り、
そして問題視されております。もちろん最近は、失業や収入低下により健康保険を支払う
ことができなくて保険証を取り上げられ、病院にかかることができなくて、症状を悪化させて
亡くなったりするケースなども増えておりますので、こういうケースは「絶対的貧困」に該当
してくるのでしょうが、今日の日本で「格差」あるいは「格差社会」といった場合に問題に
されている格差とは、主にこの「相対的貧困」のことを指しています。

そこで私は、最近、自分の担当している授業で、学生に「あなたは自分のことを『貧困』だと
思うか?」と尋ねてみました。そうしたところ、何とほとんどの学生の反応はNo。。。

ちょっとこれには驚いたので、「相対的貧困」の概念を繰り返し説明し、今はとくに非正規
雇用が増えていて、①とくに女性の場合、日本では「働く女性」の2人に1人(つまり50%
以上)は非正規雇用であること、②たとえ正規雇用であっても、昔のようにそれで安泰という
時代ではなく、正規雇用から外れてしまうリスクが非常に高くなっていること(しかも日本の
場合、一度非正規雇用になってしまえば、正規雇用に戻ることは非常に困難)、③単身
高齢者の「相対的貧困」層が年々増加し、しかも日本では高齢者の性比では女性の方が
高いため、女性ほどそのリスクが高いこと、などを繰り返し説明しました。
でも、どうもみんなあまりピンと来ない様子。

無理もありませんよね。だって、バイトくらいはしていても、まだ就職して社会人になる前の
学生たちだし、ましてや子育てを行っているわけではないですから。それに、ウチの学生は、
地方の保守的な親のもとで大切に育てられた(お嬢様というよりは)箱入り娘が多いので、
感覚的にどうもいまいち、あまりこういう問題を自分に身近な問題として認識しきれない
のかもしれません。

まあ、今はそれでも致し方ないのかもしれませんが、でも、この「相対的貧困」の問題は、
3年生になって就職活動をする頃になると、すごく切実な問題として感じられてきますよと
私は強調したいです。

なぜかって、女子一般職の就職はどんどん厳しくなってきていますからね。ウチの大学は、
伝統があり、地域ではそれなりに名門とされる大学なので、これまで、地元老舗企業や
大手企業の支店の一般職などに多くの「指定席」を持っていたのですが、ここ数年の学部
4年生の就職状況をみても、それが急激に少なくなってきています。

それだけに限らず、とくに女性が多い秘書職や事務職などは、今は多くが非正規雇用に
切り替わっていますし、仮に正規雇用であっても、これらの職種は生涯にわたって経済的に
自立していけるほどの待遇ではないケースがほとんどです。「家族」だっていつまでも
健在ではないのですから、親にパラサイトできなくなったときどうするのかなと。
そのときは結婚すればいいやと思う女子学生も少なくないのでしょうが、今はその相手すら、
昔ほど年功序列・終身雇用でがっちりと守られているわけではないのですから、
いざとなったとき、自分で経済的に自立していけるだけの職についていなければ、
すぐに「相対的貧困」層に転落してしまうのですよ。(家族社会学者で、パラサイト
シングルという言葉の生みの親である中央大学の山田昌弘先生などが「女性にとって、
今や専業主婦という選択ほどリスクの高いものはない」とあちこちで声高にいって
いるのは、まさにこのことと同じ趣旨なのです。)

それに今、日本の企業は、事業のグローバル展開や日本の大学生の質の低下もあって、
本来、新卒に割り当てられていた採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせています。
一般的にいって、日本で大学を卒業するような外国人留学生の多くは、母国語のほかに
日本語、英語ができるだけでなく、たくましくてアグレッシヴですから、こんな地方の
女子大で周りがお膳立てしてくれるような環境でのほほんと温室で育った学生たちが、
こうした外国人留学生たちと同じ土俵に立ったらどうなるだろうかということは、もはや
説明するまでもなく目に見えていることでしょう。

つまり、今の女子学生の多くは、「相対的貧困」に陥るリスクが非常に高いのです。
それなのに、今の女子学生はあまりにも本人にその自覚というか危機感がなさすぎると
感じるのは私だけでしょうか?

そういうわけで、ウチの学生だけに限らず、今の日本の女子学生には、「貧困」という問題を
けっして自分たちと対極にある問題なのではなく、自分たちの身にいつ降りかかってくるか
わからない切実な問題として、この問題に向き合っていってほしいと思っています。

2011/06/07

大学のレベルと大学教員のレベルは必ずしもイコールにあらず

研究者や大学教員をやっていると、全国のいろいろな大学の先生と出くわす機会があります。
その中には、旧帝大や全国的に知名度の高い大学の先生から、受験生の獲得や生き残りを
かけて苦しい立場に立たされている大学の先生まで、実にさまざまな立場や環境に置かれ、
そしてさまざまな個性や特徴を持った先生と出会います。

そこで感じることは、いまさら言うまでもなく、大学教員や研究者の業界では元から「常識」と
されていることなのですが、20~30年前までならともかく、今は東大や京大などの先生だからと
いって、いわゆる「優秀な」先生とは限らないこと。しかし、この現実を案外世間一般の方々は
認識していません。頭では分かっていても、やはり「東大の先生だから偉いよね~」というような
反応が無意識のうちに出てしまう方が大半なのではないでしょうか。

もちろん、東大や京大は典型的な研究型大学で、しかも大規模な大学で教員の人数も多い
ですから、それに比例するかのように学界や研究者の業界で名を馳せている先生もそれなりに
多くなるのでしょう。しかし、他方では、教育者としてはおろか、研究者としてもロクな研究業績が
なく、学内政治だけでのし上がってきたような先生、おそらく世間から見れば、よくこんなんで
東大や京大の先生になれたなと思わせるような先生もごく普通に山ほどいるのが現実です。
(これは決して誇張ではなく、また悪意があって言っているわけでもありません。そんな先生は
ほんとうに珍しくないのです。)

私はここに名をあげた某旧帝大の大学院を出ていて、またもう一方の大学の方でもポスドクの
経験があるのですが、たしかにその頃の経験を振り返っても、ロクに学生の研究指導をしない
どころか(つまりは指導放棄ですね)、それができない、または自分の指導している、あるいは
自分の専門分野に近い学生の研究発表にすらトンチンカンなコメントしかできず、かえって
学生を困惑させてしまうような先生たちの姿を当たり前のようにたくさん見てきました。
学会や研究会の場に行ってもそうです。

一方、知る人ぞ知る大学、全国的にはあまり知られていない地方の大学ではあるけれども、
なかなか新進気鋭の優秀な研究者で、人格的にも学生の研究指導や教育にも優れたものを
持っている先生はたくさんおります。
(とくに最近は、むしろこういう大学の方が案外優秀な研究者が「埋もれて」いたりもします。)

世間一般では、「大学(学部)のレベルが高い大学ほどいい先生がいる」と思われているの
かもしれません。だからこそ、首都圏の有名大学の先生がテレビ番組のコメンテーターなどに
よく声を掛けられて登場しやすいのでしょうし、また新聞社の取材に対するコメントや一般書の
執筆を頼まれたりもしやすいがために、一見活躍して業績をあげているようにみえるのですが、
しかし、実際そうした先生がそこで言っている意見やコメントなどを聞いていると、往々にして
案外「素人」よりも的外れなものであったりすることも多々あります。(問題は、それが「有名
大学の先生が言っていることだから」と安易にオーソライズされてしまい、そういう必ずしも
正しくない認識が最も支配的な見解として世間に流布してしまうことなのです。)

早稲田などでは、昔からよく「学生一流、施設二流、教員三流」などといわれてきたように
(「学生一流」は今となっては怪しいですが)、大学のいわゆる学部の入試難易度やレベルと、
大学教員のそれとは決してイコールではありません。たしかに、学部の入試難易度の高い
大学であれば、教員の方はそれだけ教育の手間や負担が少なくて済み、その分、自分の
研究や「仕事」に時間を注ぐことができますし、一般的に社会的な注目度も高くなりますので、
大学教員の多くはそういう大学でポストを得たいと考えるのでしょうが。。。

けれど、自分が大学教員になった今、「一流有名難関大学の先生=優秀」という認識は、
ますます覆されつつある今日この頃なのです。

2011/05/16

国の研究者支援制度の申請資格を年齢で制限することは妥当か?

この1週間、科研費の投稿へのアクセスがたいへん集中しております。
それだけ科研費に対する研究者の関心が高いことの現れであるのでしょう。
たしかに、ちょうど平成23年度の科研費の審査結果がすべて出そろった時期ですからね。

前回のブログでは、科研費も、アメリカなどのように審査経過や審査員名を具体的に公表
すべきことや、国民に対する説明責任として、審査に対する不服申し立ての制度を設ける
べきことを指摘しました。

ここでもうひとつ、科研費や国の研究者支援に対する制度のあり方で見直した方がよいと
思われるのは、年齢によって申請資格を制限することの是非についてです。

たとえば、科研費においては、「若手研究」という種目は39歳以下と規定されておりますが、
年齢で申請資格を制限するのはいかがなものでしょうか。

研究者のなかには、社会人やさまざまなキャリアを経たのちにアカデミズムの業界に入る
人だって少なくないはずです。したがって、研究種目への申請資格を年齢で区切るのではなく、
たとえば「ポストについてから○年以内の者」というように、アカデミズムの業界に身を置く
ようになってからの年数で制限する方が、実情を正しく反映できるような気がします。
「若手」の判断基準は、必ずしも年齢によるものばかりとは限りません。

同じような論理から、学振の特別研究員への申請資格も同様にすべきでしょう。
そうすれば、たとえば学振のRPD制度などはわざわざ設けなくてもいいはずです。
(RPDへの申請資格は、子育て中の者、もしくは子育てにより過去数年以内に
研究を中断したことがある者とのことですが、これは極端にいえば国民に対する
プロパガンダにすぎず、逆差別的な制度であるように思われます。この制度が
設けられた背景としての国の説明は、少子高齢化社会や男女共同参画への
配慮ということらしいのですが、そういうことであれば、なぜ介護はその範疇に
はいらないのか理解に苦しみます。)

日本の政府や役人は、競争原理だとか、そういう面ではやたらとアメリカの真似をしようと
するにもかかわらず、どうして、こういうダイバーシティや柔軟なキャリアパス形成に関わる
部分においては諸外国の「進んだ」制度を積極的に導入しようとしないのか不思議です。

大学院への入学などにおいては、社会人などの受け入れを奨励しているにも関わらず、
こうしたところで年齢制限を設けるのはきわめて矛盾しているとしかいえません。
おそらくこうした国の姿勢も、「高齢ポスドク問題」をはじめ、日本の大学や研究者を
とりまく世界にある種の弊害をもたらしている元凶の一つであるように思います。

追記)平成26年度募集分より、学振特別研究員の申請資格として、年齢制限が
撤廃されたようです。リカレント学生や、さまざまな経歴を経て研究者を志した方には
大きな朗報です。(2013年4月7日、本ブログ管理人追記)
詳しくは、日本学術振興会特別研究員募集ホームページをご確認ください。
http://www.jsps.go.jp/j-pd/data/shinsei/henkoten_pd.pdf

2011/05/08

科研費審査のあり方の疑問と問題点

ついに連休も終わり、来週からはまた通常の日々に戻ります。
新学期開始時期は、実は大学教員にとって「科研費」の内定が来る時期でもあるのですが、
これに申し込んだ研究者の間では、科研費の審査結果をめぐって一喜一憂の光景が
繰り広げられている時期でもあります。

「科研費」とは、「科学研究費」の略称で、いわゆる国(政府)による研究費のこと。
ひとくちに「科研費」といっても、文部科学省の科研費、厚生労働省の科研費や科学技術関係の
科研費などさまざまありますが、最もメジャーなのが文部科学省の科研費。
これは、通常、文部科学省傘下の法人である日本学術振興会というところが取り扱います。

科研費は国の研究費ということもあり、日本の研究者の間では最もポピュラーなものと
いわれております。ですので、当該分野の権威や大家といわれる大物から、大学や
研究機関にポストを得たばかりの出だしの者まで、毎年秋になると、多くの研究者が総出で
プライドをかけて応募するものでもあります。審査も公には当該分野の専門家によって
公平に行われているとされておりますし、性質上、当然そうでなければならないでしょう。

しかし、科研費の審査が果たしてどれだけしっかりと、しかも公平に行われているのかを
めぐっては、常にさまざまな論争や疑惑が絶えません。

たしかに、自分の周囲をみてみても、申請に関連するテーマでの実績や業績も素晴らしく、
申請書もよく書けている人が不採択だったり、その逆の例もかなり多くあります。
着眼点がよく、今後重要になると思われるような研究が不採択だったり、逆に、明らかに
どうみても個人的な道楽としか思えないような研究が採択され、しかも多額の研究費が
付けられていたりなどというのは枚挙に暇がありません。

こういうケースや話をよく目の当たりにすれば、科研費とはいったい何を基準に審査
されているのか、なんだかんだいっても、申請書の内容そのものというよりは、
結局は政治力や申請者の研究者としての知名度によって、ほぼ採択・不採択が
決まるのではないかとの疑念の声が上がっても無理もないように思います。
(あるポスドクや若手教員レベルの研究者が出した研究計画が不採択になったにも
関わらず、まったく同じ研究計画を今度はボスの名前や有力者の名前で出したら
通ったなどというケースは、その最たるものです。)

こういうことは、何も科研費だけに限った話ではなく、民間財団の研究費の審査なんかでも
あることでしょう。ただ、民間財団の場合は、あくまで財団の理念や研究費の趣旨に
沿った研究計画であることが第一に求められ、審査も主にそうした観点から行われるので、
自分の経験からいっても、科研費に比べれば、まだはるかに客観的で透明性も高く分かり
やすいですし、対策も立てやすいといえます。

科研費の場合、不採択者の審査結果には、不採択者の中でどの程度の位置にあったのか
A、B、Cによるランクが付される程度であり、最近でこそ、審査コメントも付されるように
なったようですが、その審査コメントも非常にあっさりした、ほとんど審査員の主観に起因する
「上から目線」的なようなもので、どこがどのように悪かったのか、どこをどのように改善すれば
採択の可能性が上がるのか、などといった建設的なコメントがあるわけではないと聞きます。
これでは、どこが至らなくて採択されなかったのか、その原因が釈然としないために、
今後、どのような戦略を立てて応募したらいいのか分からず、結果的に申請者の
研究者としての発展に繋がらず、悪循環をもたらすと思われます。

科研費は出す分野や種目、審査員が誰なのかも重要なようで、一度不採択になった
申請書をほとんど修正せずに出したら、今度は通ったというような話もよく聞きます。
(なぜなら、審査員は2年くらいでほとんど入れ替わるため。)このことはつまり、
審査員の目次第、そして応募分野によって同じ申請内容でも評価が大きく異なると
いうことを指しているのでしょう。
(科研費に関しては、よく「通った」「採択された」というよりも、「当たった」というような
言い方がなされるのは、まさにこうした所以からなのでしょう。)

ちなみに、アメリカなどでは、国の研究費の審査においては、審査の経過や審査員名も
具体的に公表されます。また、審査結果に不服の場合は、それに申し立てができるような
制度もしっかりと確立され、しかもそれがよく機能しております。

国民の税金を使った研究費である以上、申請者だけでなく、審査する側の方にも
説明責任があるはずです。日本も、科研費に関してぜひこうした制度を設けてほしい
ものと思います。
(しかし、そうしたら、不服だらけで文科省や学術振興会は大変なことになると思うが。。。
でも、そうでもしないと、この国のほんとうの意味での学術の発展はないと思います。)

2011/03/31

多言語社会・香港の言語事情――香港と北京語

最近、出張で香港に行ってきた。

空港や街中を歩いていればわかるが、香港は、欧米系の人はもとより、インド、アフリカなど世界中のさまざまな人々の姿をよく目にする。さすがグローバル都市、香港。比べるわけではないが、私はよく台湾にも行くが、台湾ではやはり、空港や街中でもっともよく目につく外国人の姿は日本人が圧倒的で、そして次に韓国人やタイ人、ベトナム人、インドネシア人という感じか。やはりアジア系が多い。また、最近は中国大陸からの観光客もとても増えている(これは香港でも同様)。

香港は生活水準は日本と全くと言っていいほど変わらない。いや、むしろ、日本よりコスモポリタン性に富み、ある意味便利で機能的にできている(というか、できすぎている)。イギリス統治の影響もあり、中華文化圏でありながらも、法や言論の自由があり、法治社会であることも、香港でビジネスをする日本人にとって利点とされているようだ。また、中華文化、とくに南方の中華文化とイギリスの文化がミックスされているので、家族のネットワークやサポートが強い一方で、欧米的な合理性やレディ・ファーストの精神がそれなりに根付いているので、現代の女性が自覚的に動きやすい社会とされている。(ちなみに、街中には働く香港人女性を支える家事労働者としてやってくるフィリピン人女性の姿がかなり多く目立つ。)

ただ一方で、香港は所得や職業による貧富の差がとても大きい社会でもある。日本もそうであるが、香港はまさに、エリートのホワイトカラー層とブルーカラー層とでは、明らかに住んでいるところ、食べるもの、ライフスタイルなどが全く違う。香港には、かつてより成功した中国大陸人も多いが、逆に大陸から逃げるようにやってきて香港下層社会で暮らす者も多い。

また、金銭による評価や待遇がけっこうシビアというかあからさまで、お金を払えば払ったなりの待遇で接してくれるが、ケチケチすれば、それ相応の待遇でしかないのは、まさに日本以上に徹底している。ホテルや住宅の設備なんかには、まさにそれがよく現れている(ちょっとケチれば、窓のないホテルや住宅なんかもごく当たり前)。しかも競争社会なので、息をついているひまもない社会でもある。

まあ、このようにプラス面マイナス面それぞれあるが、在住日本人に話を聞くと、香港は日本人にとって生活しやすい海外の一つであるようだ。たしかに、私自身、香港で暮らすチャンスがあるのなら暮らしてみても悪くない地域だと思う。

ただ、私にとって、香港でネックとなるのが言語。

香港はご存知のとおり、1842年のアヘン戦争によるイギリスへの割譲以来、1997年の中華人民共和国への返還までイギリスの植民地であったため、英語と中国語(広東語)が公用語とされ、職場や日常生活では英語がよく通じる。実際、日本人も含め、外国人にとって香港が住みやすい地域の一つであるのには、このように英語が通じ、英語ができれば全く問題なく生活できるのも大きな理由の一つである。

香港は1997年の中華人民共和国返還以降、公式には「中華人民共和国香港特別行政区」となったため、それ以降、公用語に北京語も加えられるようになり、北京語は一応、公用語のひとつとはなっている。

しかし、香港に行けば分かるが、香港で外国人が北京語を話すのはあまりいい顔をされない。やや見下されたような態度をとられる。たしかに返還以降、北京語は大陸とのビジネスや大陸観光客が多い空港や免税店、観光地ではよく通じるようになったし、最近は、「兩文三語」をスローガンとして初中等教育の場で北京語教育が始まっているが(香港の大学でも、香港人の学生を対象に、夏休みなど長期の休みを利用して大陸で北京語研修も行われるようになっているらしい)、香港における北京語の存在は実際にはまだまだリップサービス的な感じの位置づけにとどまっているような感じなのである(ちなみに香港の地下鉄でのアナウンスの順序は、広東語→英語→北京語の順)。

というわけで、私も香港ではあえて北京語を使わずに、片言の英語で乗り切っている。外国人、それも日本人が北京語を使おうものなら、距離をとられる。私も以前、返還後の香港にはじめて行った際に、タクシーに乗るとき北京語を使ったらむかついたような態度をとられた経験がある。香港では、むしろ、片言でたどたどしくてもいいから、外国人は英語で話した方が何倍もpoliteな態度で接してくれる。

ただ、香港人同士の会話や日常生活では主に広東語が用いられるため、香港社会にどっぷりとつかるには、やはり広東語ができた方がいいに越したことはない。

たしかに香港在住日本人の中にも、香港映画が好きで香港に住みついたなどという人は、香港は広東語だから興味を持った、広東語の響きが好きという人もいる。しかし、広東語を別に低く見るわけではないが、本来、広東語とはあくまで中国語の一方言の位置付けで、話し言葉が主体の言語である。広東語は、華僑・華人の世界では広く使われているが、国家・地域として使われているのは東京都の約半分の面積に約700万の人口を抱える香港だけなのである。なまじ香港は英語が通じるがために、外国人がどうせ同じ中国語を勉強するのなら、使用人口も多く、国際的にもパワーを持った言語である標準中国語(北京語)をマスターした方がという発想になるのは無理もないだろう。

香港も、英語はともかくとして、中国語の上位言語が広東語ではなく北京語だったら、私にとって仕事や生活をする上で、申し分のないほど魅力的な場所になっていただろう(世界中で幅を利かせている二大言語である英語と中国語(北京語)が両方ばっちり通用する地域といったら、最強だと思えるが。。。)。なので、私は個人的には、長く暮らすのであれば、香港よりはやはり台湾の方がいい。それに、たしかに仕事のチャンスや給料自体は香港の方に軍配が上がるのかもしれないが、台湾の方が北京語が通じるし、人の気質もフレンドリーでおおらかで人情味がある(香港でも北角あたりの庶民的な雰囲気は私は好きだが。。。。余談だが、あの春秧街のローカルな市場の中をトラムがのろのろと突き抜けて行く風景は私の香港のお気に入りのスポットの一つ)。

これは歴史的経緯や政治的背景も関係していることなので、うかつなことは言えないが、香港では中国語の上位言語が北京語ではなく広東語というのは、いってみれば、たとえば台湾が、中国語の上位言語が北京語ではなく台湾語(閩南語)の方が幅を利かせているというのと、同じような感じなのである(いうまでもないが、現在の台湾はそうではない。たしかに南部の高雄などでは、台北のある北部よりも台湾語(閩南語)のシェアは高いが、香港における広東語ほどではない。香港が実質上の公用語を広東語にできたのは、もともと広東人が中心の社会で、その昔、移民の多くが広東人だったからこそ可能であったのであろう。逆に台湾の場合、標準中国語(北京語)が「国語」とされたのは、戦後の統治者が日本から中華民国に代わったという政治的な理由以外にも、もとより香港以上にエスニシティに多様な社会であったことも大きかったからなのではないかと思われる。)

このような歴史的経緯や大陸に対するイデオロギーや住民意識の問題はあるにしても、香港も、中国語の上位言語が広東語ではなく北京語だったら、今のグローバル化の時代、「両岸三地」として中華圏がもっと一体化し、その強みを発揮できるのではないだろうかと考えるのである。

2011/02/28

国内でも地域差がある日本とアジア間の人の流れ

今、勤務先の大学の仕事の関係で台湾に来ています。
今回は、現在私が住む都市に最寄りの空港から台湾に出発しました。
私が現在住んでいるところは、台湾人、いや台湾の人たちだけでなく、香港、韓国、そして最近は中国人観光客からも大人気の土地で、日本国内でもアジアの人々にとって最も人気のある憧れの地域となっているようです。

台湾に行くのにこの空港を利用したのは今回が初めてですが、そこで気が付いたのは、乗客のおそらく7割方は台湾人だったこと。

もちろんその大半は観光客だと思われますが、最近は台湾のフラッグキャリアであるエバー航空やチャイナエアラインも、東京や大阪に加えて日本の主要都市へのフリーパックを出しているようなので(だいたい2泊3日から3泊4日程度で、フライト、ホテル、往復の送迎が付いているタイプのもの)、観光客だけでなく、自分で何か商売を営んでいるような感じの人が、おそらくそれを利用してやってきて、当地の特産品を大量に買出しに来ているような感じの台湾人の姿もちらほらみかけました。

今年の年明けには、同空港から香港を往復したのですが、やはり香港線でも乗客の7割程度は香港人でした。そちらでも、家族旅行、リピーターの個人旅行者らしき人をたくさんみかけました。

ちなみに、私は数年前まで東京に住んでいたのですが、そちらから台湾や香港などに向かう路線では、逆に日本人の出張のビジネスマンらしき人、団体ツアー客などが多く目につき、台湾人や香港人の乗客はそれに比べればおそらく3割から4割程度と比較的少数派でした。

なるほど、私は今回の台湾行きはエバー航空を利用しましたが、客室乗務員は日本人が1人のみであと全員台湾人だったのですが、同じエバー航空に成田から乗った時は、台湾の航空会社にもかかわらず、台湾人客室乗務員は少数で日本人客室乗務員がほとんどだったというのはこうしたゆえんでもあったのですね。

こうしてみると、台湾、香港、韓国、中国など近隣のアジアと日本の間の人的移動は、全体に占める双方の乗客の比率を比較した場合、東京など首都圏からアジアに向かうのは日本人の方が比率的に多いのに対して、逆にこれらの地域から東京以外の地方主要都市への人の流れはアジアの人たちの方が多くなっており、同じ日本国内からの出発便でも、地域によってその乗客の国籍別比率に大きく違いがあることがうかがえます。

どうりで、フライトの時刻表を見れば、地方大都市の空港から台湾や香港に行くフライトは、午後もしくは夕方出発がほとんどで、逆に現地からのフライトは午前の朝早い時間になっているんですね。(ただ、逆に日本から出て行くこっちの身にしてみれば、逆にこのダイヤは不都合なのですが。。。)

現代のグローバル化時代における人の移動の特徴のひとつは、観光と移住の境界線があいまいになりつつあること。日本から海外に出て行く場合でも、「暮らすように旅する」とか「旅するように暮らす」といったような文言をよく雑誌などで見かけるようになりましたが、アジアから日本への観光においても、それがもはや一過性のものではなく、しかも彼ら彼女らの日本での観光消費行動が、地方都市においても、すでに単なる観光といった枠組みを超えるような側面さえ見受けられるようになっております。私が2010年9月に訪問した石垣島でもそうでした。

こうしてみると、日本の地方都市の産業や経済は、今後ますますこうしたアジアからの人の流れによって促されていくような気がします。

2011/02/10

評価の高いレポートと低いレポート

今、大学教員の多くは学生の答案やレポートの採点時期。

学生のレポートを採点していると、よく書かているレポートとそうでないレポートが必ずあるものですが、私が担当しているある講義授業では、授業で取り上げた内容とそれに基づいた理解に立った上で学生に自由にテーマを設定させ、それについて論じたものをレポートとして提出することを課しています。

そこで、一言でいうと、やはり評価の高いレポートは、多少ぎこちなくても、一生懸命自分の言葉で語ろうとしていることが伝わってくるレポート。そして、そこで語っていることがしっかり自分のものになっていて、事例が地に足が付いているもの。

逆に、評価の低いレポートは、剽窃ではないものの、ほとんどどこかから取って付けて書いたようなレポート。一見よくできているようでも、学生が普段使わないような言い回しや用語が散りばめられていれば一目瞭然。私は講義系で人数が多い授業では、授業数回に一回の割合でリアクション・ペーパーを導入しているので、そこに書かれてある記述と照らし合わせてみれば、それが果たして自分の言葉かそうでないかということはすぐ分かります。

ということで、私の授業のレポート採点は、まず、私が読んで感心したレポートは文句なく優評価。一般的に見てレベルが高く、論理的な展開がうまくできているものも優。それに対し、そつなくまとまってはいるけれど、あまり、知的なチャレンジになっていないものは残念ながら良評価。つまり、論述の根拠は示されているが、問題設定に書き手の個性があまり見られず、リアリティのない紋切り型の言い回しに寄りかかっている類のもの。そして、感想文レベルのもの、ほとんどコピペだろうと思われるもの、論拠が示されていないものは可の評価という感じになります。


大学というところは、高校までのように、たんに教科書に書かれてある記述をそのまま覚えるのではなく、いうまでもなく「考える力」「発信する力」を身につける場所。とくに私が専門としているような社会科学系の科目にはそれがいえます。

したがって、事実はひとつでも、一つの問題をさまざまな角度から見つめることができていることと、そこから推測できることを手掛かりに、自分なりの「論を立てる」というプロセスが重要。学生には、このような認識に立って、レポート作成に取り組んでほしいと思うものです。

2011/02/07

卒論面接口頭試問

私が勤める大学の私が所属する学科では、本日、卒論の面接口頭試問が終了しました。
今日は、自分が指導教員として主査になっている学生たちの口頭試問をはじめ、
副査になっているものも含めて、朝から夕方まで立て続けに面接口頭試問が行われました。

私は初めて学生の卒論面接口頭試問というものを担当しましたが、
これまでと異なって今度は自分が面接する側の立場に立ち、
学生たちの緊張した姿を目の当たりにして、思わず自分が学生だった頃を思い出しました。
なかには緊張して受け答えがしどろもどろになっている学生もいたけど、
けっこう皆しっかりと受け答えに応じていました。エライ!

ここで、私が主査を務めた学生の副査になってくださった、ある先生のお言葉。

「決して弱いところを突くのではなく、いいところを褒めてあげて、
こうすればもっと伸びるよというように、その学生を勇気付けてあげるような
観点からコメントをしてあげることが大事」

いいお言葉ですね。
研究者の世界に染まってしまうと、何かにつけて他人の研究や論文に対して
批判めいたことを言ったり、あら探しをしたりするという、ある種の「不健全な」姿勢が
自ずと身についてしまい、それが原因で思わぬ場面で関係がギスギスしてしまうものですが、
決して甘く評価するということではなく、人の長所を褒めてあげるということは、
他人だけでなく、のちのち自分自身にもプラスに跳ね返ってくるものだということを
あらためて認識した次第でした。

ウチの大学は、旧帝大のような決してアカデミックな権威をもった大学ではないけれど、
人を育てるという観点からみれば、なかなか優れたものを持っている大学かもしれない。
(本来なら、こういう大学こそが研究者を育てる機関として相応しいのかも。。。)

私の卒論指導学生たちは、全員就職も決まって一安心。
学生や先生方から勇気をもらった一日でした。

2011/02/05

大学院進学の心得―失敗しない指導教員の選び方

2月に入り、私の住む地域でも急にぐっと春めいてきました。私の勤める大学の私が所属する学科でも、卒論の面接口頭試問が始まり、初日であった昨日、さっそく5人の学生の副査を務めました。卒論とはいっても(失礼!)、みんななかなかしっかり書いていることに感心。。。

さて、この新規オープンしたブログをさっそくウチの大学の自分の周辺にいる学生にも宣伝したこともあり、1月31日付けのブログ「日本の文系大学院はリスク多し」を読んで、大学院進学に対して学生からさっそくいくつかの相談をいただきました。その相談の内容は、一言でいってしまえば、「指導教員を選ぶ際、できるだけリスクを少なくするにはどうすればよいのか」といった大学院での指導教員の選び方についてです。

たしかにこれはなかなか難しい。ある意味、大学院を選ぶより難しいことです。何せ自分自身、これで失敗した経験があるものですから。。。自分の出身大学・学部・学科に直属の大学院であれば、内部の事情や先生についてもだいたい分かりますが、外部の大学院を志望する場合、その先生の専門分野、書いている論文といった以外に情報がほぼないのがネックです。

そこで、外部の大学院に進学を考える場合、希望する先生の専門分野、どのような論文を書いているのかなどといったベーシックな情報を集めることはもちろんですが、それ以外にぜひ必ずやっておきたいことは、その先生に直接お会いして進学の相談に乗ってもらうことはもちろん、可能であれば希望する先生にお願いして、最低1年間は希望する先生のゼミに参加させてもらうことです。ゼミへの参加が無理であれば、通常の講義授業でもよいでしょう。(きちんとプロセスや礼儀を踏まえた上で丁寧にお願いすれば、良心的な先生であれば不親切な対応をすることはまずあり得ないので、この段階でそっけない対応をするような先生だったら、いくらその先生が研究者として優れていて有名な先生でも避けた方が無難です。)

なぜこれが重要かといえば、少なくとも1年間、その先生のゼミなり講義なりに参加していれば、その先生の考え方や方針、また性格やお人柄がだいたい分かるため、はたして自分に合う先生かどうか、安心して付いていって大丈夫な先生かどうかがかなり確実に見極められるからです。ホームページなどにはふつうはいいことしか書かれておりませんので、それに大きく頼って判断してしまうのは極めて危険です。

もし希望する先生が遠方の大学で、毎回の出席は無理な場合は、1年のうち何回かゼミや講義に出席させてもらう形でもよいでしょう。そして、そこでその先生の学生と仲良くなって情報を仕入れるようにする。さらに、今はメールが普及しているので、だいたい1年間くらいだけでも続けてその先生とやりとりをしてみること。ある程度の期間、定期的にその先生とメールのやりとりをしていれば、返事の内容や反応だけでも、先生のお人柄というものがけっこう確実に分かるものです。

何せ自分の研究者としての将来を託す先生。先生のリサーチは超重要。もちろん、普段の自分自身の努力が大切なことは言うまでもありませんが、付く先生の判断を誤れば致命的。大切な自分の将来にもかかわりかねないのですから。。。仮に1~2年進学が遅れたとしても、大学院に進学を本気で考えるのであれば、あとあとお金と時間を無駄にしないためにも、このプロセスは絶対に怠らないでほしいものです。

2011/02/02

就職が決まる学生と決まらない学生の差

大学生の就職内定率が過去最低を記録したというニュースが、連日のようにニュースで報じられています。

就職内定率過去最低 大学、支援に苦心 希望留年や学費減額
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20110119ddn003100020000c.html

大学就職内定率68.8%、過去最低に学長らは
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201101240088.html

この68.8%という数字は、全国平均なので、男女別、地域別に見れば、とくに地方の学生、女子学生の数字はぐっと低くなるでしょう。

ウチの大学は、一応、地域では名門とされる大学で、地元での評価はそれなりに高く伝統もあるため、昔に比べてレベルが下がったといわれる今日でも、OB・OGの培ってきた実績により就職は決して悪くはありません。実際、昔から金融や商社など地元大手老舗企業や大手企業の支店の一般職、航空、テレビ局といった女子学生に人気がある業界への就職率も高いですし、地元の学校教員、公務員などにもソコソコ採用実績があります。

しかし、昨今の経済・社会情勢の変化によって、女子一般職の採用を契約社員や派遣社員など非正規雇用に切り替えたり、あるいは昨今、事業のグローバル展開を視野に入れ新卒採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせるなどといった動きが加速化していることから、ここ数年だけでも、これまでウチの大学に来ていた銀行や損保、商社の学校推薦による採用枠も大幅に少なくなっております。そんなこともあり、この時期になってもまだ就職が決まっていない学生も、ちらほらと見受けられます。

ところが、少なくとも、自分の周囲にいる学生を中心にみてみると、就職が比較的早めに決まっている学生と、そうでない学生は、もちろんすべてがそうとは限りませんが、何となく共通する傾向が見受けられることに最近気がつきました。

就職が早めに内定していたり、複数の企業から内定をもらっている学生は、まず①基礎学力が高い、②ゼミでもいい形で周囲をリードできる、③教員とのコミュニケーションの取り方が上手い。

反対に、就職がなかなか決まらない学生のタイプは、①提出物や課題の締め切りを守らない、②しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする、といった共通した傾向があります。

「基礎学力が高い」というのは、平たく言えば、主に高校レベルまでの基礎学力がどれだけ確実に身についているかということ。最近は、よく「分数ができない大学生」「漢字が書けない大学生」といったことがメディアでも大きく報じられるようになり、大学教育の場でも大きく話題になっています。幸い、ウチの大学はそこまではひどくありませんが、それでも基礎学力がしっかりしている学生とそうでない学生の差はけっこうあります。

それでは、基礎学力の程度はどのようにしておおよそ判断できるかといえば、一概には言えませんが、意外にも確実な目安となるのが出身高校の学力ランク。最近は、高偏差値の一流大学の学生でも、推薦入試やAO入試で入学する学生が増えていることもあり、基礎的な漢字が読めない、文章が書けない、計算ができない、といったケースが増えているといわれていることから、ここにきてあらためて入社試験に漢字テストや計算といった試験を導入する企業が増え、また大学生の新卒採用においても、出身大学名よりも出身高校名を重視する傾向が出てきていると聞きます。さらに一部の企業では、採用面接の際に、一般入試で大学に入学したのか、それとも推薦入試・AO入試の類で大学に入学したのか尋ねるケースも出始めているそうです。(このことは、これまで当該大学の学生の相対的なレベルや実力を判断するのに、事実上、社会的に最も確実な目安とされてきた「入試」が十分な選抜の機能を果たさなくなってきたということの現れのひとつであるといえるでしょう。)

一方、就職が決まる学生の「ゼミでもいい形で周囲をリードできる」「教員とのコミュニケーションの取り方が上手い」、決まらない学生の「提出物や課題の締め切りを守らず、しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする」というのはもはや説明するまでもありません。

こうしてみると、社会や企業が求めている人材というのは、実は、基礎学力や一般常識をきちんと備え、かつ当たり前のことが当たり前のようにきちんとでき、その上で柔軟性に富み応用が利く人材であることが分かります。しかし、これら「当たり前」のことをきちんと備えた学生が、今日、相対的に減ってきていることが問題なのかもしれません。もちろん、それが理由のすべてとはいいませんが、大学生の就職率が低下し、企業が日本の大学新卒学生をなかなか採用したがらなくなってきたのも、こんなところにも理由の一端があるのかもしれません。

大学生の就職難は、単に目先の経済問題や若者の自己責任論だけにその理由を還元するのではなく、高等教育のあり方、あるいはもっといえば、それ以前の中学・高校における教育、家庭での教育や親の子供との向き合い方も含め、国民全体でもっと根本から議論していかなければならない問題であると思います。

2011/01/31

日本の文系大学院はリスク多し

ある同僚の先生との世間話で、最近、学生から、たまに大学院進学の相談話を持ちかけられるという話題が出た。とくにウチの大学は、私が所属する学部では現在のところ大学院を持っていないので、大学院に進学する学生の多くは近くの某旧帝大に進む。実際、毎年ある程度の人数の学生がそこに進学している。

ただ、大学院に進学した後、理想と現実のギャップに悩んで母校であるウチの大学の恩師に相談にやってくる学生がけっこういて、とくに最近は増えているらしい。

いまさら言うまでもないことですが、日本の文系大学院というのは、手とり足とり指導はしてくれず、基本的に放任主義です。私の出身大学院である某国立旧帝T大学の出身研究科は放任というより「放置」でした。何せ、自分からコンタクトをとらない限り、半年1年平気でほったらかしにされるような環境でしたし、指導教員から指導らしい指導を受けたことは、極端な話、在学中一度もありませんでした。

ですので、自分の研究や問題関心に対して、ある種の「こだわり」を持っていないと、いずれ潰れてしまいます。とくに、私の本務校は女子大で少人数教育が徹底しているということもあり、先生方はみな親切すぎるほどなので、こんな環境で育ってきて、学生たちはそれが当たり前と知らず知らずのうちに認識してしまっているので、総じて撃たれ弱く、大学院に進学した後、良くも悪くもこうした放任主義型の環境に突き当たってよけいに「カルチャーショック」を受けるというのもあるでしょう。

しかし、そういう点を差し引いても、今の日本の文系大学院の教育の現場は、ここではあえて書きませんが、かなり惨憺たる状況が繰り広げられている現状が大学院に進学した学生たちの相談の声からかなり切実なものとして聞こえてきます。研究そのもので悩むよりも、指導教員やその周辺にいる教員たちとの関係の方で多くの神経をすり減らさざるを得ない。2009年には、東北大学博士課程の院生が指導教員の不適切な指導により、2年連続で博士論文を指導教員に受け取ってもらえず自殺したという事件が大きくクローズアップされましたが、このような形で世間に明るみになるのは氷山の一角といってよいでしょう。

自分の経験からいっても、日本の文系大学院、とくに博士課程は、信じられないような封建的社会です。教員からの嫌がらせのような指導により、研究が不当に貶められたりして、精神的に強いダメージを被ることなど日常茶飯事です。一生懸命まじめに研究するより、指導教員に取り入る方が、間違いなく博士号取得への近道にもなっています。したがって、日本の場合、死ぬほど苦労しても、結局博士号が取得できないケースも多々あります。(日本では博士号、とりわけ人文社会科学系の博士号が社会的に評価されないのは、こうした現状を社会や企業側もそれなりに認識していることも関連しているでしょう。)

これに対し、アメリカの博士課程は実力主義が徹底しています。指導教員が贔屓や嫌がらせをできないように、論文の審査は無記名で、かつ他大学の教授が行うというような仕組みが作られています。与えられたカリキュラムを頑張ってクリアしていけば、ほぼ間違いなく博士号はもらえます。

また、日本では、文系大学院=社会不適合者、日本社会で規範的とされる生き方を逸脱してレールを外れた者との認識が社会的に根強いこともあり、このことがよけいに文系大学院とくに博士の就職難を生んでいるといえます。東大の博士課程修了者でも就職率は50%にも満たないというデータもあり、これを人文社会科学系のみに限定すれば、博士号取得者もしくは博士課程修了者のパーマネントポストでの就職率は、おそらく30%にもならないでしょう。

このような「象牙の塔」の現状はつい最近まであまり世間で知られておりませんでしたが、最近は「高学歴ワーキングプア」「博士の就職難」が社会問題として大きく浮上し、その実態が一般社会でも知られるようになってきていることもあり、博士課程への進学者は2004年頃をピークに減ってきているようです。(その関係もあるのか、自分の勤務校の近くの某旧帝大のいくつかの研究科は、数年前より毎年ウチの大学で大学院進学説明会を行うようになっております。これは、ウチの大学の要請で行っているのではなく、先方から説明会を行わせてほしいという依頼により実施しています。)そのため、旧帝大クラスの有名国立大学でも博士課程の定員割れが相次ぎ、文科省も、2009年には博士課程の定員縮小という方向に高等教育政策を転換させました。

日本の文系大学院とくに博士課程の進学者は、全部が全部そうとは言いませんが、大きく次の三つのタイプの学生で占められております。第一に、アジアを中心とした外国人留学生、第二に、新規学卒で就職が上手くいかなかった、あるいは新卒で就職する気がなかった人、そして第三に社会人からの出戻り組。このうち、どのカテゴリーの学生層が最も多いかは大学や研究科によっても異なります。一概には言えませんが、このなかで、最も進学を勧めることができないのは第二のタイプです。(その意味で、よく日本の人文社会系大学院は、社会不適合者とアジアからの外国人留学生の巣窟といわれています。)


研究者の世界というのは、世間一般にはインテリ層とみなされているため、その実態は厚いヴェールで覆い隠されておりますが、とくに日本では、ごく一部の成功者を除けば、多くはワーキングプアに転落してしまうのが現実なので、芸能人の世界と構造的には何ら変わらないといえるでしょう。博打のようなものです。なので、ごく一部の人を除けば、①実家がお金持ちで、しかも両親や配偶者に理解がある、②研究で身を立てることができなくても食いっぱぐれる心配がない(定年退職者、専業主婦など)、といった立場にいる人でなければ日本の文系大学院というところは行かない方が賢明でしょう。

このような現状から、私は学生に対して、よほど強いこだわりがない限り、日本で大学院に行ってはダメと「忠告」しています。それでも大学院に進学したいというのなら、その教員がたんに研究者として優れているというだけでなく、教員の人格的な点も含め、よほどこの先生に付いて、そこでしっかりやっていけば大丈夫という確信が持てない限り、進学するのは非常にリスクが高いと「警告」しています。


それと、お金と英語力があれば、欧米の一流大学の大学院に行った方が絶対によいです。学位取得までのプロセスやそこに至る評価システムが日本よりしっかり確立されているだけでなく、英語力もつきますし、世界に人脈が持てるからです。実際、アジアの留学生も、インド、フィリピン、香港など英語圏もしくは準英語圏の学生は、元から日本を通り越して欧米の大学院を志向する傾向がありましたし、今後は、日本への留学生の二大供給源である中国と韓国においても、ますますそうなっていくでしょう。とくに研究者の業界は、今後、理系だけでなく人文社会科学系においても、ますます国内だけでは労働市場が完結しなくなりますし、もともと研究者の世界に国境はありませんので、その方があなた方のためですよと口を酸っぱくして学生たちに言っています。