2011/02/02

就職が決まる学生と決まらない学生の差

大学生の就職内定率が過去最低を記録したというニュースが、連日のようにニュースで報じられています。

就職内定率過去最低 大学、支援に苦心 希望留年や学費減額
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20110119ddn003100020000c.html

大学就職内定率68.8%、過去最低に学長らは
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201101240088.html

この68.8%という数字は、全国平均なので、男女別、地域別に見れば、とくに地方の学生、女子学生の数字はぐっと低くなるでしょう。

ウチの大学は、一応、地域では名門とされる大学で、地元での評価はそれなりに高く伝統もあるため、昔に比べてレベルが下がったといわれる今日でも、OB・OGの培ってきた実績により就職は決して悪くはありません。実際、昔から金融や商社など地元大手老舗企業や大手企業の支店の一般職、航空、テレビ局といった女子学生に人気がある業界への就職率も高いですし、地元の学校教員、公務員などにもソコソコ採用実績があります。

しかし、昨今の経済・社会情勢の変化によって、女子一般職の採用を契約社員や派遣社員など非正規雇用に切り替えたり、あるいは昨今、事業のグローバル展開を視野に入れ新卒採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせるなどといった動きが加速化していることから、ここ数年だけでも、これまでウチの大学に来ていた銀行や損保、商社の学校推薦による採用枠も大幅に少なくなっております。そんなこともあり、この時期になってもまだ就職が決まっていない学生も、ちらほらと見受けられます。

ところが、少なくとも、自分の周囲にいる学生を中心にみてみると、就職が比較的早めに決まっている学生と、そうでない学生は、もちろんすべてがそうとは限りませんが、何となく共通する傾向が見受けられることに最近気がつきました。

就職が早めに内定していたり、複数の企業から内定をもらっている学生は、まず①基礎学力が高い、②ゼミでもいい形で周囲をリードできる、③教員とのコミュニケーションの取り方が上手い。

反対に、就職がなかなか決まらない学生のタイプは、①提出物や課題の締め切りを守らない、②しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする、といった共通した傾向があります。

「基礎学力が高い」というのは、平たく言えば、主に高校レベルまでの基礎学力がどれだけ確実に身についているかということ。最近は、よく「分数ができない大学生」「漢字が書けない大学生」といったことがメディアでも大きく報じられるようになり、大学教育の場でも大きく話題になっています。幸い、ウチの大学はそこまではひどくありませんが、それでも基礎学力がしっかりしている学生とそうでない学生の差はけっこうあります。

それでは、基礎学力の程度はどのようにしておおよそ判断できるかといえば、一概には言えませんが、意外にも確実な目安となるのが出身高校の学力ランク。最近は、高偏差値の一流大学の学生でも、推薦入試やAO入試で入学する学生が増えていることもあり、基礎的な漢字が読めない、文章が書けない、計算ができない、といったケースが増えているといわれていることから、ここにきてあらためて入社試験に漢字テストや計算といった試験を導入する企業が増え、また大学生の新卒採用においても、出身大学名よりも出身高校名を重視する傾向が出てきていると聞きます。さらに一部の企業では、採用面接の際に、一般入試で大学に入学したのか、それとも推薦入試・AO入試の類で大学に入学したのか尋ねるケースも出始めているそうです。(このことは、これまで当該大学の学生の相対的なレベルや実力を判断するのに、事実上、社会的に最も確実な目安とされてきた「入試」が十分な選抜の機能を果たさなくなってきたということの現れのひとつであるといえるでしょう。)

一方、就職が決まる学生の「ゼミでもいい形で周囲をリードできる」「教員とのコミュニケーションの取り方が上手い」、決まらない学生の「提出物や課題の締め切りを守らず、しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする」というのはもはや説明するまでもありません。

こうしてみると、社会や企業が求めている人材というのは、実は、基礎学力や一般常識をきちんと備え、かつ当たり前のことが当たり前のようにきちんとでき、その上で柔軟性に富み応用が利く人材であることが分かります。しかし、これら「当たり前」のことをきちんと備えた学生が、今日、相対的に減ってきていることが問題なのかもしれません。もちろん、それが理由のすべてとはいいませんが、大学生の就職率が低下し、企業が日本の大学新卒学生をなかなか採用したがらなくなってきたのも、こんなところにも理由の一端があるのかもしれません。

大学生の就職難は、単に目先の経済問題や若者の自己責任論だけにその理由を還元するのではなく、高等教育のあり方、あるいはもっといえば、それ以前の中学・高校における教育、家庭での教育や親の子供との向き合い方も含め、国民全体でもっと根本から議論していかなければならない問題であると思います。

2011/01/31

日本の文系大学院はリスク多し

ある同僚の先生との世間話で、最近、学生から、たまに大学院進学の相談話を持ちかけられるという話題が出た。とくにウチの大学は、私が所属する学部では現在のところ大学院を持っていないので、大学院に進学する学生の多くは近くの某旧帝大に進む。実際、毎年ある程度の人数の学生がそこに進学している。

ただ、大学院に進学した後、理想と現実のギャップに悩んで母校であるウチの大学の恩師に相談にやってくる学生がけっこういて、とくに最近は増えているらしい。

いまさら言うまでもないことですが、日本の文系大学院というのは、手とり足とり指導はしてくれず、基本的に放任主義です。私の出身大学院である某国立旧帝T大学の出身研究科は放任というより「放置」でした。何せ、自分からコンタクトをとらない限り、半年1年平気でほったらかしにされるような環境でしたし、指導教員から指導らしい指導を受けたことは、極端な話、在学中一度もありませんでした。

ですので、自分の研究や問題関心に対して、ある種の「こだわり」を持っていないと、いずれ潰れてしまいます。とくに、私の本務校は女子大で少人数教育が徹底しているということもあり、先生方はみな親切すぎるほどなので、こんな環境で育ってきて、学生たちはそれが当たり前と知らず知らずのうちに認識してしまっているので、総じて撃たれ弱く、大学院に進学した後、良くも悪くもこうした放任主義型の環境に突き当たってよけいに「カルチャーショック」を受けるというのもあるでしょう。

しかし、そういう点を差し引いても、今の日本の文系大学院の教育の現場は、ここではあえて書きませんが、かなり惨憺たる状況が繰り広げられている現状が大学院に進学した学生たちの相談の声からかなり切実なものとして聞こえてきます。研究そのもので悩むよりも、指導教員やその周辺にいる教員たちとの関係の方で多くの神経をすり減らさざるを得ない。2009年には、東北大学博士課程の院生が指導教員の不適切な指導により、2年連続で博士論文を指導教員に受け取ってもらえず自殺したという事件が大きくクローズアップされましたが、このような形で世間に明るみになるのは氷山の一角といってよいでしょう。

自分の経験からいっても、日本の文系大学院、とくに博士課程は、信じられないような封建的社会です。教員からの嫌がらせのような指導により、研究が不当に貶められたりして、精神的に強いダメージを被ることなど日常茶飯事です。一生懸命まじめに研究するより、指導教員に取り入る方が、間違いなく博士号取得への近道にもなっています。したがって、日本の場合、死ぬほど苦労しても、結局博士号が取得できないケースも多々あります。(日本では博士号、とりわけ人文社会科学系の博士号が社会的に評価されないのは、こうした現状を社会や企業側もそれなりに認識していることも関連しているでしょう。)

これに対し、アメリカの博士課程は実力主義が徹底しています。指導教員が贔屓や嫌がらせをできないように、論文の審査は無記名で、かつ他大学の教授が行うというような仕組みが作られています。与えられたカリキュラムを頑張ってクリアしていけば、ほぼ間違いなく博士号はもらえます。

また、日本では、文系大学院=社会不適合者、日本社会で規範的とされる生き方を逸脱してレールを外れた者との認識が社会的に根強いこともあり、このことがよけいに文系大学院とくに博士の就職難を生んでいるといえます。東大の博士課程修了者でも就職率は50%にも満たないというデータもあり、これを人文社会科学系のみに限定すれば、博士号取得者もしくは博士課程修了者のパーマネントポストでの就職率は、おそらく30%にもならないでしょう。

このような「象牙の塔」の現状はつい最近まであまり世間で知られておりませんでしたが、最近は「高学歴ワーキングプア」「博士の就職難」が社会問題として大きく浮上し、その実態が一般社会でも知られるようになってきていることもあり、博士課程への進学者は2004年頃をピークに減ってきているようです。(その関係もあるのか、自分の勤務校の近くの某旧帝大のいくつかの研究科は、数年前より毎年ウチの大学で大学院進学説明会を行うようになっております。これは、ウチの大学の要請で行っているのではなく、先方から説明会を行わせてほしいという依頼により実施しています。)そのため、旧帝大クラスの有名国立大学でも博士課程の定員割れが相次ぎ、文科省も、2009年には博士課程の定員縮小という方向に高等教育政策を転換させました。

日本の文系大学院とくに博士課程の進学者は、全部が全部そうとは言いませんが、大きく次の三つのタイプの学生で占められております。第一に、アジアを中心とした外国人留学生、第二に、新規学卒で就職が上手くいかなかった、あるいは新卒で就職する気がなかった人、そして第三に社会人からの出戻り組。このうち、どのカテゴリーの学生層が最も多いかは大学や研究科によっても異なります。一概には言えませんが、このなかで、最も進学を勧めることができないのは第二のタイプです。(その意味で、よく日本の人文社会系大学院は、社会不適合者とアジアからの外国人留学生の巣窟といわれています。)


研究者の世界というのは、世間一般にはインテリ層とみなされているため、その実態は厚いヴェールで覆い隠されておりますが、とくに日本では、ごく一部の成功者を除けば、多くはワーキングプアに転落してしまうのが現実なので、芸能人の世界と構造的には何ら変わらないといえるでしょう。博打のようなものです。なので、ごく一部の人を除けば、①実家がお金持ちで、しかも両親や配偶者に理解がある、②研究で身を立てることができなくても食いっぱぐれる心配がない(定年退職者、専業主婦など)、といった立場にいる人でなければ日本の文系大学院というところは行かない方が賢明でしょう。

このような現状から、私は学生に対して、よほど強いこだわりがない限り、日本で大学院に行ってはダメと「忠告」しています。それでも大学院に進学したいというのなら、その教員がたんに研究者として優れているというだけでなく、教員の人格的な点も含め、よほどこの先生に付いて、そこでしっかりやっていけば大丈夫という確信が持てない限り、進学するのは非常にリスクが高いと「警告」しています。


それと、お金と英語力があれば、欧米の一流大学の大学院に行った方が絶対によいです。学位取得までのプロセスやそこに至る評価システムが日本よりしっかり確立されているだけでなく、英語力もつきますし、世界に人脈が持てるからです。実際、アジアの留学生も、インド、フィリピン、香港など英語圏もしくは準英語圏の学生は、元から日本を通り越して欧米の大学院を志向する傾向がありましたし、今後は、日本への留学生の二大供給源である中国と韓国においても、ますますそうなっていくでしょう。とくに研究者の業界は、今後、理系だけでなく人文社会科学系においても、ますます国内だけでは労働市場が完結しなくなりますし、もともと研究者の世界に国境はありませんので、その方があなた方のためですよと口を酸っぱくして学生たちに言っています。