2012/03/10

変化の著しい東アジアの社会と若者

このほど、勤務先の大学の日本語教員養成課程の学生実習引率の関係で台湾に行ってきた。
私の勤務先の大学は、台湾の有名私立大学であるF大学と協定関係を結んでおり、
その関係から、そこの大学の日本語学科で日本語を専攻する学生を対象に、毎年、
この日本語教員養成課程を履修する学生が日本語教育実習を行っているほか、
この台湾のF大学からも長・短期の留学生を受け入れている。

そこで、そこの学生たちや、街で行き交う学生たちを見ていて思うのは、若者の志向や
価値観が年々、良くも悪くも日本と似たようになってきていること。

少なくとも、90年代末までの台湾は、たしかに外見は一見日本人と似ている ようではあっても、
実際に話をしたり接してみると、自分の「国」の将来や 政治についても敏感でよく考えており、
日本の若者には見受けられないような気骨や逞しさのようなものが感じられることが しばしばあった。しかし最近は、服装など外見だけでなく、 台湾でも若者が「草食化」してきており、
良くも悪くも日本の若者と変わらないようになってきている。

その背景には、インターネットや携帯電話の普及など、メディア環境の 劇的な変化が後押し
していることはもちろんであるが、これ以外にも、 とりわけ台湾の文脈に照らして重要な点として、1990年代末以降、 地下鉄の路線の発達など交通インフラの急速な発達以外にも、
今の台湾の大学生は、もはや1987年の戒厳令解除以降に生まれた世代に 移行している
ように、台湾史のなかで重要な歴史的ターニングポイントとなる 時代を経験していない世代になっていることが指摘できる。

台湾について多少なりとも調べたことのある人なら、台湾社会は、 1987年の戒厳令解除に
伴って、1980年代末から1990年代初期にかけて 社会の文脈がガラリと変わったことは
周知の事実であろう。 1987年に戒厳令が解除されるまでの台湾社会は、国民党による一党
独裁政治が行われていたことから、社会には常に政治的な緊張感が漂っていた。
また、そうしたなかで、いわゆる「本省人」(1945年以前から台湾に住んでいる 漢民族)と「外省人」(戦後台湾に渡ってきた漢民族)のエスニック対立の構図が 根強く存在し、
それが政治のみならず、人々の思考や生活空間をも大きく 規定してきた。

しかし、今や台湾では、1987年以後に生まれた世代が大学生になっていることもあり、 この戦後台湾における「本省人」対「外省人」というエスニック対立の 決定的発端となった1947年の「2・28事件」さえ、ろくに知らない若者が増えて きている(まあ、もっとも、「外省人」の親はこの歴史的事件を迂闊に子どもに 教えたがらない傾向にあるから、台湾の今の若い世代があまりこの事件のことを 知らなくなってきているのも、無理もないのだろうが)。

このことは、ちょうど今回、2月28日前後に台湾に滞在していたこともあり、 台湾のメディアでも
大きく報じられていた。日本では、最近の若者は歴史を知らないこと、 歴史に無頓着である
ことが何かに付けて批判の対象となる向きがあるが、同様のことは今、 台湾でも起きている
のである。(実際に、2012年1月の台湾総統選では、 若者の投票率の低下を指摘する現地メディアもあった。これなどは、 少し前までの台湾ではあり得なかったことだろう。)

目を同じ東アジアの他の国に転じてみれば、同様の現象は中国や韓国でも見受けられる
ようになっている。中国でも、最近は、「80後」(パーリンホウ)といわれる、1980年代以降に
生まれた、いわゆる一人っ子政策施行後の世代、市場経済導入以降に生まれ育った世代が
すでに大学生、そして結婚適齢期に入っている。こうした彼/女たちは、(たしかに愛国主義
教育のもとで日中戦争期の日本に対して厳しい見方をしているものの、)政治に対する信頼や
感心も概して上の世代に比べて薄く、また都市部では消費社会の到来も後押しして、日本の
同世代の若者と同じか、むしろそれ以上に過保護に育てられていることから、日本の若者と
同じような価値観を持つようになり、場合によっては、日本の若者以上に若者の志向が
贅沢になっていることも指摘されている。

このような展開は、決して何も悪いことではないし、逆説的にみれば、過去の歴史に無頓着
であるがゆえに、かえってそれが、日本や台湾、あるいは中国など東アジアの若者同士で、
「目線を同じくした」交流や連帯を促進する上でプラスに働くこともあるのかもしれない。
実際、今の日本の若者も、過去の日本(人)がアジアに対して行った植民地支配や侵略の
歴史をよく知らないからこそ、逆に上の世代が持っていたようなこれらの国や地域に対する
先入観や優越感も小さい。こうしたなかから、新しい発想に基づいた企画や商品ができたりも
するだろうし、「国」のレベルや、従来の認識を超えた親近感さえ育まれる可能性もある。

最近の日本の女子高生や女子大生の間では、携帯メールでハングル文字を使ってコミュニ
ケーションを図るのが「かっこいい」現象となっていたり、韓国人男性との結婚が一つの憧れ
にもなっているそうであるが(ちょうどアジアの男性が日本人女性に憧れるのと同じように)、
こうした認識や発想が出てくるのも、いわゆる歴史に無頓着な世代であるからこそゆえに
成し得る展開であるともいえるだろう。

しかし、生まれ育った国や社会の歴史をろくに知らないという世代が大きく台頭するように
なった日本や台湾、中国、韓国などの将来は、今後どのようなものになるのだろうか。

何かと過去の歴史にこだわりすぎるのもどうかと思うが、やはり過去の歴史に無知な 住民が多くを占めるようになった国というものは、ひとつ気骨のある国にはなって いきにくいだろうし、日本に対する理解や関係も、「きれいな」表層的な次元のものだけに とどまりかねない。
その意味で、そうした世代が社会の中枢を担う世代として台頭してくる(あるいは今後していく)
ようになった東アジアの国々、そして日本とこれらとの関係は決して楽観視できる面ばかり
ではなく、正直にいって、無味乾燥なものになっていきかねないような感も否めないのである。

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