2011/06/07

大学のレベルと大学教員のレベルは必ずしもイコールにあらず

研究者や大学教員をやっていると、全国のいろいろな大学の先生と出くわす機会があります。
その中には、旧帝大や全国的に知名度の高い大学の先生から、受験生の獲得や生き残りを
かけて苦しい立場に立たされている大学の先生まで、実にさまざまな立場や環境に置かれ、
そしてさまざまな個性や特徴を持った先生と出会います。

そこで感じることは、いまさら言うまでもなく、大学教員や研究者の業界では元から「常識」と
されていることなのですが、20~30年前までならともかく、今は東大や京大などの先生だからと
いって、いわゆる「優秀な」先生とは限らないこと。しかし、この現実を案外世間一般の方々は
認識していません。頭では分かっていても、やはり「東大の先生だから偉いよね~」というような
反応が無意識のうちに出てしまう方が大半なのではないでしょうか。

もちろん、東大や京大は典型的な研究型大学で、しかも大規模な大学で教員の人数も多い
ですから、それに比例するかのように学界や研究者の業界で名を馳せている先生もそれなりに
多くなるのでしょう。しかし、他方では、教育者としてはおろか、研究者としてもロクな研究業績が
なく、学内政治だけでのし上がってきたような先生、おそらく世間から見れば、よくこんなんで
東大や京大の先生になれたなと思わせるような先生もごく普通に山ほどいるのが現実です。
(これは決して誇張ではなく、また悪意があって言っているわけでもありません。そんな先生は
ほんとうに珍しくないのです。)

私はここに名をあげた某旧帝大の大学院を出ていて、またもう一方の大学の方でもポスドクの
経験があるのですが、たしかにその頃の経験を振り返っても、ロクに学生の研究指導をしない
どころか(つまりは指導放棄ですね)、それができない、または自分の指導している、あるいは
自分の専門分野に近い学生の研究発表にすらトンチンカンなコメントしかできず、かえって
学生を困惑させてしまうような先生たちの姿を当たり前のようにたくさん見てきました。
学会や研究会の場に行ってもそうです。

一方、知る人ぞ知る大学、全国的にはあまり知られていない地方の大学ではあるけれども、
なかなか新進気鋭の優秀な研究者で、人格的にも学生の研究指導や教育にも優れたものを
持っている先生はたくさんおります。
(とくに最近は、むしろこういう大学の方が案外優秀な研究者が「埋もれて」いたりもします。)

世間一般では、「大学(学部)のレベルが高い大学ほどいい先生がいる」と思われているの
かもしれません。だからこそ、首都圏の有名大学の先生がテレビ番組のコメンテーターなどに
よく声を掛けられて登場しやすいのでしょうし、また新聞社の取材に対するコメントや一般書の
執筆を頼まれたりもしやすいがために、一見活躍して業績をあげているようにみえるのですが、
しかし、実際そうした先生がそこで言っている意見やコメントなどを聞いていると、往々にして
案外「素人」よりも的外れなものであったりすることも多々あります。(問題は、それが「有名
大学の先生が言っていることだから」と安易にオーソライズされてしまい、そういう必ずしも
正しくない認識が最も支配的な見解として世間に流布してしまうことなのです。)

早稲田などでは、昔からよく「学生一流、施設二流、教員三流」などといわれてきたように
(「学生一流」は今となっては怪しいですが)、大学のいわゆる学部の入試難易度やレベルと、
大学教員のそれとは決してイコールではありません。たしかに、学部の入試難易度の高い
大学であれば、教員の方はそれだけ教育の手間や負担が少なくて済み、その分、自分の
研究や「仕事」に時間を注ぐことができますし、一般的に社会的な注目度も高くなりますので、
大学教員の多くはそういう大学でポストを得たいと考えるのでしょうが。。。

けれど、自分が大学教員になった今、「一流有名難関大学の先生=優秀」という認識は、
ますます覆されつつある今日この頃なのです。

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