2015/05/27

川崎中1殺害事件の教訓を無駄にするな

今年2月、川崎で起きた当時中学1年の上村遼太くん殺害事件から3ヶ月が過ぎた。
この事件は、被害者がとても残忍な殺され方をしたという点で日本中を震撼させ、
海外のメディアでも報道されたほどである。また、事件を読み解いていく上で
浮かび上がってきた川崎市川崎区の土地柄、女性(シングル・マザー)の貧困、
そして子どもの教育や少年犯罪の防止において、行政・学校・地域・家庭の連携が
いかに重要な意味を持つかを示すものであったという点においても、社会に
たいへん大きなインパクトや教訓を投げかけている。

事件の経過などについては、すでにあちこちのメディアで取り上げられているため、
ここではあえて詳しくは触れないが、被害者の上村くんは、上村くんが5歳の時、
父親が漁師になりたいとの希望から島根県西ノ島にIターン移住した。しかし、
移住して3年ほどたった頃に夫のDVにより離婚(上村くんが小学3年生の頃)、
母親が子ども5人を引き受けて育てていたが、生活が苦しかったため、2013年の
小6の夏に母親の実家のある川崎の小学校に転校した。上村くんは大好きだった
西ノ島に残りたかったようであるが(川崎に引っ越してわずか2週間ほどで、一度
西ノ島に戻ってきたというエピソードもある)、前向きで明るい性格だったので
一生懸命に新しい環境になじもうとした。結果、転校先の川崎でも持ち前の
キャラクターから一気に人気者になり、中学に上がると大好きなバスケ部にも
入って活躍した。

しかし、上村くんが中1の2014年の夏が過ぎたあたりから様相は一変する。
上村くんは、バスケの仲間が紹介してくれた人たちと交友関係を持つようになるが、
それが近所でも有名な不良グループであり(おそらく当初は上村くんは不良と
気付かなかったか、気付いていたとしても、まさか後々こんな羽目になるとは
想像もしていなかったのだろう)、付き合う仲間が悪くなったことから、髪型や
素行にもやや変化が現れるようになった。秋頃からは学校も休みがちになり、
大好きなバスケ部もやめてしまうことになる。そして仲間からは万引きを強要
されるようにもなったが、それを拒否すると暴力を振るわれるようになり、
暴行がしだいにエスカレートしていき、仲間から抜け切れなくなった。

上村くんは、事件の1、2ヶ月前から「仲間から抜けたい」「殺されるかもしれない」と
周囲にたびたびメッセージを投げかけていた。にもかかわらず、それが周囲の
大人たちに行き届かなかった(いや、行き届いてはいたけれど、学校や地域は、
面倒なことに巻き込まれたくないからと無視していたといった方が適切かもしれない。
なぜならば、担当の教師は何度にもわたって上村くんの母親に電話をかけていた
らしいが、肝心の校長などはほとんど関与していなかったことが明らかだったから
である)。そしてついに2月19日の深夜、上村くんは、仲間の一人から主犯格が
いることを知らされずにLINEで呼び出され、激しい暴行を受けた末、残念な結末と
なってしまったのである。殺害現場の様子を聞き及ぶごとに、なぜ何の罪もない
上村くんがこれほど残忍な殺され方をしなければならなかったのか、ほんとうに
かわいそうで残念でならない。
(全く面識のない見ず知らずの第三者の自分でも、悲しくて涙が出るほどである。)

この事件をあらためてふりかえると、上村くんは、西ノ島という小さな島で皆兄弟
のような環境で育ってきたわけであるが、人見知りをせず周囲に自分から入って
いく子だったという。しかし、その純朴で素直な性格が(屈託のない、きらきらとした
可愛らしい笑顔の写真がそれを物語っている)、川崎ではかえって災いすることに
なってしまったのだろう。結果論であるが、西ノ島から川崎に移ってこなければ、
不良グループにも出会うこともなく、こんな目に遭うことはなかったであろうだけに
今回の事件は非常に悔やまれる。今回の事件から、子育てや教育をする環境が
いかに大事かという点にあらためて気付かされた人も少なくないだろう。
上村くんも、こうした環境に放り込まれなかったら、とてもいい子に成長していくはず
だったに違いない。今、日本ではあちこちで物騒な事件や殺害事件が起きているが、
こうした上村くんの生い立ちや事件に至るエピソードも考慮に入れると、これほど
被害者がかわいそうに感じられ、またこれほど加害者が憎らしく、腸が煮え返るような
思いをした事件はない。

この事件の背景要因については、事件現場周辺に特有の土地柄や、シングル・
マザーの厳しい経済状況と社会的立場の弱さ、そして母親の対応ぶりなど
さまざまな要因が指摘されているが、もう少し学校や地域がきちんと目をかけて
適切な対応をしていれば、少なくとも最悪の事態は逃れることができたように
思われる。事件当初、メディアでは上村くんが暴行を受けていることに対する
母親の無責任さや放置状態が指摘されていたが、その後の警察による取り調べで、
上村くんの母親は、ちゃんと学校や警察に相談を繰り返していたことが明らかに
なっている。捜索願が出ていたからこそ、今回、川崎の河川敷の事件での被害少年が
上村くんだとすぐに特定できたのである。この事件が起きてからすでに3ヶ月が経過
しているにもかかわらず、上村くんの殺害現場には今でも全国から献花に訪れる人が
絶えないと聞く。このことは、この事件の無念さを自分のこととして等身大に受け止めて
いる人たちがいかに多くいるかということを物語っているといえよう。

容疑者3人の少年の逆送が決まり、成人同様刑事裁判にかけられることになり、
これから裁判員裁判が行われる予定だという。そういう意味で、展開はまだまだ
これからであるが、「少年法」によって減刑された少年たちの再犯率は高いことは、
1989年に東京足立区で起きた「女子高生コンクリート殺人事件」の主犯格らなどに
よっても十分に証明されている。18歳といえば、たしかにぎりぎり未成年かもしれないが、
もはや成人同様の判断力もあるし、悪知恵も働く年齢である(現に主犯格は別の
傷害事件での保護観察状態を解かれたばかりで、どうやったら刑を逃れるか、
減軽されるか、そのすべを知っているようなことを周りに吹聴していたそうである)。
ましてや今、選挙権の年齢引き下げとかも議論しているくらいなのだから尚更である。

上村くんの死が問いかけた教訓を無駄にしないためにも、そして「第二の上村くん」を
出さないためにも、今後の裁判の展開を注意深く見守っていきたい。

2014/09/29

久々の英語での研究発表

先日、あるワークショップで久々の発表を行った。このワークショップは、台湾の
政府の学術研究機関である中央研究院の学者先生らを招いてのワークショップ。

最初、このワークショップの主宰者の先生から、「発表しませんか?」と声を かけられたとき、
英語での研究発表だということを意識していなくて、 二つ返事で引き受けてしまい、
そのあとで英語で発表しなければならないと いうことがわかって、「ありゃ~」と思ってしまった。
だって、先方から来る研究者の方々は、台湾の社会学の権威ばかりなんだもの。
そういうお偉い方々がいらっしゃるなかで、しかも英語での発表なんて、よく考えたら
恐れ多いこと。自分はなんて怖いもの知らずなんだろうと。
でも、普段からお世話になっている先生なので今更断るわけにはいかないし、
ワークショップへの参加はいい機会になると思い、この1ヶ月弱の間、英語での原稿を
作ったり、パワーポイントを作ったりしたりして、何とか準備を整えて臨んだ。

英語での研究発表なんて、ぜんぜん慣れていなかったので、ほんとうに当日は
どうなることやらと思っていたが、出来映えはともかく何とか無事に終了。
英語でのプレゼンテーションも、やはり数をこなしていくごとに、コツのようなものを
だいぶ習得できていくようにも感じた(何事も経験が大事)。

それと、このワークショップに参加できてよかったと感じているのは、 台湾の社会学界の錚々たる研究者の先生方のレクチャーから最新の研究成果を 学ぶことができたのと、
ワークショップの主催先の大学の先生方・院生や ポスドクの方々といい関係ができたこと。
この主催側の大学は旧帝ということもあってか、さすがに研究活動が 盛んに行われており、自分の勤務先の大学にどっぶり浸かっていては体験できないような いい刺激を受けることができた。この1日だけで半年分くらい勉強した感じである。 やはり活発に研究活動を進めていく上では、自分自身の努力や意欲もさることながら、 こういう環境に身を置くことが重要なんだとあらためて感じた。 (誤解のないように断っておくと、これは何も自分の勤務先の大学を否定しているのではない。 自分の勤務先の大学にも、学生の礼儀正しさや品の良さ、温和で清楚な雰囲気など、 こういう大手の研究型大学にはないような良さもある。)

このワークショップの発表者として、お声をかけてくださった先生にはあらためて 感謝申し上げたい。 これを一つの潤滑油として、今後のために研究活動を頑張っていきたい。

2013/10/22

かわいい猫動画に癒される

久しぶりにyoutubeで可愛い猫ちゃんを発見!

最近、猫を飼っている人の間では、「わが子が一番」とばかりに、
youtubeなどに愛猫の動画をアップするのが流行っているそう。

家族の単位が縮小し、子供の数も少なくなったり、
また人付き合いがデジタル化傾向にある世の中も反映してか、
ペットにぬくもりを感じ、ペットを「家族」の一員とみなす傾向は、
より強まっているように感じる。

ところでこの猫ちゃん、鏡に映って3匹になった自分を
すご~い不思議そうな表情でじ~っと見つめているが、
その表情や動作が何とも可愛い!

この猫ちゃんの名は"Maru"というらしい。
その名のとおり、ちょっと丸っと太っているが、
この丸っと太っているのがかえって雰囲気に合っている。

3匹のねこ?-Three Marus?-
https://www.youtube.com/watch?v=RxoZ-AZKpX8

とっても癒される、かわいい動画です。
(こんな猫ちゃんがいたら、ずっと家の中から出たくないだろうな。)




 

2013/03/06

ネットやケータイは便利だが・・・

多忙な毎日が続き、久しぶりのブログ更新。
しかし、私がここしばらくブログを更新していなかったのには、もうひとつ
理由がある。それは、最近、インターネットにはまりすぎる生活はできるだけ
送らないように心がけているからである。

今やインターネットや携帯は、現代人の日常生活に欠かせないツール。

たしかにこれらは便利なツールで、とくにインターネットは、これは私たちの
日常生活に大きな利便性をもたらしたことは間違いない。
実際、こうした新しいメディアが普及したからこそ、企業なんかにおいても
単純労働にかかるコストや人件費の削減が可能になったわけだし、個人の
日常生活においても、web上で公共料金を支払ったり、銀行の決済を済ませたり
なんかといった各種の処理も可能になった。また、家族と遠く離れた場所に
住んでいたり海外に滞在していても、家族や友人との連絡を取り合うことも
容易になったため、海外暮らしでカルチャーショックやホームシックに陥る
ということも昔に比べてめっきり少なくなった。もはや、これらがない生活は
考えられない、成り立たないという人は多いだろう。

ただ、インターネットは、あまりにハマりすぎると、逆に不健康な、不便なツールにも
なりうる。なぜなら、遠く離れているのならともかく、近くにいる人との間ですら、
会って直接話せば10分で済むことを、30分、1時間かけて文章を作成してメールを
送信する必要が出てくるからである。私が知る例だと、同じ職場で、すぐ見える
ところに相手の席があるにもかかわらず、こんなことまでメールにして伝えなきゃ
いけないのか、と思うような次元のことまで、いちいちメールにして送っている
ケースもあった。これこそまさに、時間のロス。いくら時間があっても足りない
ことになり、よけいに人を忙しくさせてしまう。

たかがメール、されどメール。
メールの文章って、微妙なニュアンスをいかに相手にきちんと伝わるように
的確に表現するか、けっこう頭を練らなければならない。とくに「行間を伝える」
「行間を読む」ことが求められる日本語なら尚更。それに、何か物事に集中して
いるときにメールの着信音が鳴れば、それで作業が中断されてしまいかねない。
利便性と不便さが紙一重ということは、まさにこのことを指すのである。

なので、私も以前は結構長いメールを書く傾向もあったのだが、最近は
メールはあまり長く書かないようにしている。そのせいか、最近はメールを
書く回数もめっきり減った(ように思う)。

直接会って対面して話すのと、メールによるコミュニケーションは、それぞれ
一長一短である。そんなこと言われなくても分かっている、当たり前と思うかも
しれないが、現代人は案外これらを上手く使い分けることができていない。
それゆえに、ネットにハマりすぎることで人との付き合いがかえって疎遠になって
孤立化して鬱になったり、ネット中毒になって、ネットサーフィンで一日があっという
間に過ぎて行ってしまい、勉強や仕事に支障が出たりすることになりかねない。
(お隣のIT大国である韓国では、すでに「ネット外来」なるものができていて、
大繁盛しているそう。)
こういう話題を出すと、「昔はテレビとの向き合い方に対して同じようなことが
言われていた」と言い出す人もいるが、ネットや携帯はテレビに比べて「個人化」
したツールであるだけに、よけいにこうした状況をもたらしやすい。

ネット上でのやりとりと直接会った上での対面でのやりとりは、時と場合によって
うまく使い分けることが大切。地域社会やコミュニティの衰退が言われるように
なって久しいが、こうした状況が顕著になってきたのは、何も地域社会の高齢化や
過疎化といった要因だけが原因なのではない。こうした要因以外にも、人々の
ライフスタイルがデジタル化し、アナログな交流や人付き合いが少なくなったのも
その一因ではないかと考えられるのである。

2012/10/06

大学生になっても保護者懇談会だなんて

最近、多忙な状態が続いていたため、約3ヶ月ぶりのブログ更新。

日本の大学の中等教育化がいわれて久しい。たとえば、学生の相対的な質の低下を直視し、
高校で扱うような内容の補習的な授業科目を設置するなど、「リメディアル教育」を導入する
大学が増えていることはもちろんだが、大学と学生との関係も、高校の延長線上のような
感じが出てきていると感じるのは何も私だけではないだろう。

今日、日本の大学進学率はすでに50%を超えるようになっている。つまり、大学は、すでに
高校卒業生の2人に1人は進学する大衆教育機関となっているのである。大学生に相当する
年齢層の人口が減っているにもかかわらず、高校卒業生の2人に1人が進学する機関に
なっているということは、日本の大学は、とっくにユニバーサル化の段階に入っていることを
如実に意味している。大学は、すでに20~30年以上前のように、「進学校」とよばれる
一部の限られた特定の高校の生徒のみが進学する教育機関ではなくなっているのである。
そしてまた、社会のありようが変われば、当然、大学もそれに合わせて変質していかざるを
得ないのは、いまさら強調するまでもない。

それゆえに、大学が学生に対して過保護傾向になるのはやむを得ないのかもしれないが、
最近、私が驚いていることの一つに、保護者(父兄)懇談会なるものを実施する大学が
増えていることである。実はこの保護者懇談会なるものは、ついに、ウチの大学の、
私が所属する学部とは別の学部でも実施することになったようで、大学がある意味学生に
対して「冷たかった」頃の時代の大学教育を受けてきた自分にとってみれば、まさに隔世の
感がある。「大学生になっても保護者懇談会とは何だかな」と思ってしまう。
しかも、東大でさえも、今では父兄対象の懇談会を実施しているというから、日本の大学の
中等教育化はついにここまで来てしまったのかという感をぬぐえない。

しかし、この保護者懇談会なるものに疑問を感じ、懸念を抱くのは、何もこうした理由だけ
からではない。その理由は大きく二つある。

一つは、日本の場合、大学に進学する学生の主な年齢層は、18歳から22歳である。
18歳から20歳まではたしかに法律上でも「未成年」であるが、20歳以上は「成人」である。
この「成人」を超えた学生に対して「保護者」といういい方は、なんか違和感を感じる。
それでも、新入生や大学1、2年生対象なら法律的にも「未成年」に区分されるから
まだ分からなくもないが、3年生、4年生になっても「保護者」懇談会って、なんだか
いつまでも大学が学生を子ども扱いし、こうした法的な概念と照らし合わせると
矛盾しているようにも思われる。
(さらにいえば、「保護者」と命名するならば、飲酒も当然禁止されるべきであろう。)

そして二つ目に、こうして大学が保護者懇談会なるものを開催することは、他方で、
ますます子どもの親離れする年齢を引き伸ばし、また、逆に親の子離れを阻止する
ことにも繋がりかねない。最近、「モンスターペアレント」の存在があちこちで聞かれる
ようになり、子どもがいつまでたっても親離れできないだけでなく、逆に子離れできない
親が増えていると聞くが、こうした保護者懇談会なるものがこれ以上あちこちの大学で
開催されるようになれば、そうした動きをますます助長するようにもなりかねないのでは
ないだろうか?現に、大学入試はおろか、就活での面接や子どもの就職先の入社式に
まで親がくっついてくる時代になっているくらいなのだから。

大学とは、いうまでもなく義務教育ではない。たしかに、昔に比べて大学は大衆化し、
望めば誰でも行けるような時代になっているから、そのような観点からいえば、今は
実質的には義務教育に近いような側面も出てきている。とはいえ、大学とは本来、
そこで学びたい者だけが自己の意志や選択に基づいて行くべきところである。
この大学本来の趣旨や根幹は、大学の位置付けや社会における役割がいかに変化
しようと、決して揺らぐべきものではない。

たしかに大学が中等教育化し、社会における位置付けが変わりつつあるなかで、
大学もいろいろ苦肉の策を考えなければ生き残りが苦しい時代に入っている。
このような「大学受難の時代」に入れば、これまでとは何か異なる工夫や取り組みが
大学としても求められるようになってくるのはやむを得ない。おそらく各大学側も、
学生の親に対し、「これだけ学生の立場に立った教育や指導を熱心にやっている
んですよ。だから安心してくださいよ」ということを伝えたくて、こうした保護者対象の
懇談会を設けているのだろう。しかしながら、ケアの良さを強調したいのであれば、
もう少し別の方法がありうるのではないだろうか。大学が率先して保護者懇談会
なるものを実施するというのは、上のような理由から首をかしげざるを得ないのが
正直な実感なのである。

2012/07/03

もうひとつのアカハラ?

この週末、某学会に行って来た。
この学会でも、年配女性の某先生を姿を見た
この先生、いつも一人で学会に足を運んでくる。

私とこの先生は、関心が少し近いせいもあって(あまり細かくいうと、この業界、すぐに特定
されてしまうので、具体的な専門分野についてはあえて言及しないでおく)、私が足を運ぶ
学会、そして参加する部会やセッションには、だいたいいつもこの先生もいて、ふと出くわす
ことが多いこの先生は、この業界では比較的有名な部類に入る先生である。

しかし、この先生は、学会で発表者に対して割と容赦のない厳しい質問を投げかける傾向が
あるので、私は個人的にこの先生を何となくあまり好きではなかったが、今回、そうした思いを
よけいに強くさせてしまう場面を見てしまったのだ。

ある若い院生の発表の場面。
最近は、院生といってもいろいろだが(学部からストレートで進んできた者だけでなく、
白髪交じりの風貌の明らかに中高年の院生もいる)、この報告者は前者のタイプ。
おそらく博士課程一年目か二年目くらいの院生と見えた。

この報告者の発表は、「100人を超える人にインタビューをした」といっているにもかかわらず、
それらの基本属性などの概要が示されていないこと、政府統計の分析が2005年頃で止まって
しまっていることなど、正直、私自身もちょっといまいちな発表と感じてのだが、何と、
この某先生が、この発表者に対して、こうした指摘も含めた厳しい質問をズバズバ投げかけ
始めたのである。

それだけなら、「この先生、ずいぶんきつい質問するなあ」で済む話である。この手の人は
どこの学会とかに行っても必ずいるものだろうし、別にどうってことない。しかし問題は、
その報告者がこの某先生の質問に答えた際に、おそらくその回答がこの某先生にとって
納得のいくものでなかったようで、この某先生は会場にいる他の参加者の目にも明らかに
分かるような素振りで、首を横に振って投げやりな態度を示し始めたことである。
こういうのって、今の時代、見方によってはアカハラに該当しかねない行為にも読み
取れるだろう。)

たしかに学会という場で報告する以上は、最低限の水準当然求められるだろう。
しかし、よく考えてみれば、相手は院生、つまりまだ学生なのである。ポスドクや
専任教員など研究歴の長い者と比較して、院生のそれ未熟なのは言ってみれば
当たり前のことであり、それを鼻っから「上から目線」のような態度で接するのは、
良識を疑わざるを得ない。たしかにその報告者の報告のレベルがその先生の目に
かなうようなものでなかったにせよ、その辺は多少差し引いてみるべきであり、
会場にいた他の参加者の中にも、同様の印象を持った人は少なからずいたに違いない。
これが同じ院生仲間の間で繰り広げられた展開なのならともかく、この場合、
報告者である院生の発表そのものの未熟さよりも、むしろこの先生の態度の方が
目立ってしまう形となってしまい、結果として問題視されかねない。

もし、「上から目線」のような態度を示すのであれば、その発表者を非難するような形で
質問するのではなく、発展的改善意見を提起するような教育的な配慮も含めた観点から
質問やコメントを投げかけるというのが、本来ではないか。学会で一定の評価を得ている
高名な先生であるならば、よけいにそうであってほしい。
あるいは、そのセッションが終わってから、その発表者のところに個人的に行くなりして、
そうしたことを指摘すべきである。そのくせに、この某先生、自分が「なかなか」と思った
発表者に対しては、そのセッションが終わった後、自分の名刺を渡しにいくのだから、
よけいに「なんだかなー」と思ってしまう。(こんな先生に、学会のコメンテーターだとか、
論文の査読なんかがあたってしまったら最悪。)

いくら研究者として一定の地位を確立している有名な先生でも、こういう先生は私は好きに
なれないし、尊敬はできない。自分は将来、こういう人にはなりたくないなあという感を
強くした今回の学会の一場面であった

2012/04/30

えっ、東京女学館大学がなくなる?

ついさきほど、東京女学館大学が受験生の減少と定員割れが続いていることを理由に、
来年度から学生の募集を停止し、2016年3月に閉校の方針を発表したという記事をみつけた。

東京女学館、閉校へ 来年度から募集停止
http://www.asahi.com/national/update/0430/TKY201204300224.html

東京女学館といえば、戦前につくられた由緒ある女子校で、附属の小学校から持った
学校である(ちょっと調べてみたところによると、この学校は明治時代中期、新興華族など
名士のお妾さんやそのお妾さんのお嬢様を大手をふるって教育するために、伊藤博文
などが尽力して創った学校なんだとか)。この記事を見て、東京女学館のような伝統校でも、
女子大はどこも経営が厳しいんだなということを実感した次第である。
まさに「女子大厳冬の時代」とでも言おうか。

そういえば、数年前にも、ちょうどやはり東京女学館と似たような女子の伝統校である
山脇学園も短大が閉校になったのを思い出す。

日本では、90年代半ば以降、「一般職OL」という職域の消滅とそれによる女性のライフ
コースの変化、そして少子化によって女子を四年制大学に進学させることのできる
家庭の増加などを背景に、女子の四大志向へのシフトが起こった。こうした動きに乗じて、
女子短大を持っていた学校が、その短大を四年制大学に改組・昇格させたり、他方で、
地方都市に多い、事実上女子の高等教育機関として機能していた公立短大も、県立
大学などに吸収合併されるケースが全国的に相次いだ。後者のケースは、四年制大学に
移行後、その対象をとりわけ女子のみに特化していないということもあってか、四年制
大学に移行後もそれほど大きな問題がなく展開できているものの、私立の女子高等教育
機関で、かつて女子短大だったところが四年制大学に移行した女子大学で、成功している
ケースは実は意外にも少ない。

その一因として考えられる理由については、以前、このブログの「岐路に立たされる
『日本型お嬢様大学』」http://skchura.blogspot.jp/2011/07/blog-post_12.htmlにおいて、
少し関連する内容を取り上げたこともあるので、ここではあえて詳しくは触れないが、
大学受験人口の減少と女子受験生の共学志向といった要因以外にも、ひとことで
いってしまえば、こうした学校は世間でいう所謂「お嬢様学校」とよばれるところなので、
(小)中高はともかく、高等教育機関は、とりわけ日本社会の文脈においては、
短大であってこそその価値を発揮できてきたのだといえるのだろう。

自分が知る範囲内でも、G女子は短大から四年制に移行して、少なくとも入試偏差値が
それほど低下せず、移行前のステイタスをほぼそのまま維持できたという意味において
そこそこ成功した数少ない例といえると思うが、東京女学館をはじめ、TE女学院やK女学園、
関西のO女学院など、四年制大学に移行していまいち振わなくなったケースの方が多い。
ただでさえ女子受験生の間で女子大の人気が低下している今日、山脇学園は、こうした
事例もひとつの教訓として、あえて四年制に移行する道を選ばなかったと聞いているし、
東京女学館の今回の選択も、これ以上、「キズ」が深くなるまえに手を打ったのだと見る
こともできる。

今の日本の大学、そして女子大学を取り巻く現状から考えて、今後、日本の多くの女子大は、
①共学化するか(実際、大阪女子→大阪府立、高知女子→高知県立、広島女子→県立
広島など、かつて全国にいくつかあった公立女子大は、すでにそのほぼ全てが近隣の公立
大学に吸収合併されている)、②今回の東京女学館のように閉校するか、いずれかの選択を
取らざるを得ないことになるものと予測される。しかしながら、これまで理系や実学・資格系の
学部・学科を持ってこなかった文学系・教養系のみの学部学科構成の女子大、またはミッション
系の女子大や世間で「お嬢様学校」とされてきた女子大の多くは、設立当初からもっぱら女子
教育に特化してやってきたという「プライド」から、この②の今回の東京女学館と同じような
選択を取るケースがさらに増えてくることは想像に難くないだろう。

自分の勤務先の大学も中学から大学まで持っているが、大学には、かつての短大が
母体となっている学部もある。また、偏差値的にも、バブル期までは全国的にもそこそこの
レベルにあり、私立女子大としては結構高い位置をキープしていたものの、最近は多くの
女子大と同じように、受験生の減少傾向が出始め、昔のOGには申し訳なくなるほど凋落
傾向が大きい(現に極端な例だと、学生が就活でOGを訪問しようとしても「私たちの頃とは
学生の質が全然違う」として断られるケースも出ているそうなのである)。

にもかかわらず、法人側の理事長は「私どもは絶対に共学化しません。永遠に女子大を
堅持します。今の時代だからこそ、あえて女子大にこだわりたいのです」などと言い張って
いる。実際、10年ちょっと前に、近所の同じ宗派のキリスト教系の学校で、今でこそこの手の
学部学科を持つ女子高等教育機関が急増したものの、当時は全国的にもまだそれほど
多くなく、この分野においてはそれなりの実績を持つ女子の資格・実学系専門の某短大から
合併を打診されたことがあるらしいが、聞くところによると、それを当時のウチの理事長が
断ったらしい。その後、そこは四年制大学に移行して共学化し、この大学受難の時代に
おいて受験生や入試難易度を順調に伸ばし、学生の就職などもなかなか堅調で、ウチと
競合する専攻においてはすっかりその地位が逆転してしまっている。おそらく当時は、
ウチの側からすれば「あそこと合併するだなんてとんでもない」という感覚だったんだろうが、
今じゃ逆に、ウチからお誘いをかけても、かえって向こうの方が断ってくるんだろうな。
先見の明がないというか、結果論だが、今考えれば勿体ないことをしたものだ。昔よかった
時代の認識やプライドをなかなか捨てきれないがために、かえってそれがアダとなって
しまった形である。おそらく伝統校や「お嬢様学校」とされる女子大ほど、こういう過去の
栄光へのこわだりというか、なんだかんだ言ってもそこからなかなか認識の転換ができない
ことが、逆に今の時代に足枷になってしまうのだろう。

それゆえに、今回の東京女学館のニュースは、正直にいって他人事に思えない部分も大きい
のが正直な心境なのである。

2012/03/18

学術学会の事務処理体制と加入意義を再考する

早いもので3月も中旬を過ぎ、もうすぐ新年度。
私は現在のところ、5ヶ所程度の学会に入っているが、このなかには、会費に見合った
メリットや意義があまり感じられないような学会もあるので、この辺で、自分の
研究者としての立ち位置を今後どのように売っていくか、今後どのような人たちと
お付き合いしていくか、その戦略を見直す意味も含めて加入学会を見直そうと思い、
仮に退会する場合、どのような手続きが必要になるのか、最近、何ヶ所かの学会に
問い合わせをした。

そこで、学会事務担当宛にそうした趣旨のメールを送ったところ、2ヶ所の学会から、
「このメールでもって退会処理をさせていただきます。ありがとうございました」というような
文面が返ってきて、その対応というか手続きのあっけなさに、かえって拍子抜けしてしまった
次第である。「おいおい、ちょっと待てよ」と。この学会は、私をそんなにやめさせたがって
いるのかと。

会費を納めなければならない時期はまだまだ先なのだから、今納めている会費が効いて
いる間は入っていた方が得なのはいうまでもない。今は、あくまで「辞めることを考えて
いるが、もし辞める場合はどのような手続きがいるのか」という確認をしたまでの話である。
そこで、そのことをあらためて伝えたら、今度は「飛躍した解釈をしてしまいまして、申し訳
ございませんでした」だって。まったく危機一髪、焦ったよな~。

学会とは同列には語られないが、これをもし企業や職場組織にたとえるなら、
総務担当部署に「辞めたいと考えているのだが、辞める際の手続きを確認したい」と
申し出たところで、「はい、じゃあ、これであなたは退職と扱います。さようなら」といって
いるのと同じことである。

今回、このような対応が返ってきた学会は2つ(日本S学会、AS学会)であるが、
いずれにも共通しているのは、1)大所帯の学会であること、2)外部に事務処理を委託
していて、実際に学会の役員は事務処理には基本的にノータッチであること、である。

こうした大手の学会は、入会する際にはそれなりの手続きがいるものだが、
辞める場合には、メール一本でできるなんて、ずいぶんとあっさりしたものだ。
学会や学問の世界なんてそんなものなのか。

メール一本であっさりと退会処理ができるなら、極端な話、本人から送られたメールで
なくてもできることである。これがもし、いわゆる「なりすまし」のような、誰か他の第三者から
送信されたのものであったとしたら、どうなるだろうか。今回の私の件に限らず、学会側は、
いくら事務処理を外部に委託しているとはいっても、しっかりと本人に電話を入れて本人
確認をするなどして、もう少し対応や処理を慎重に行うべきであろう。少なくとも、会員として
毎年会費も納め、それなりに学会の維持・運営に寄与しているのであるから、メール一本で
あっさりと退会処理を進めるとはあまりにも無情である。

こういう大所帯の学会は、論文を投稿したりできる機会も少なく、学会に行っても、
いつも決まったような特定の人たちだけが縄張りを張っていて、けっこう居心地が悪い。
ゆえに、学会の場に足を運んでも、そこでの議論もどことなく表面的で、本当の意味で
発展的な議論ができたと感じることが意外にも少ないものである。メリットといったら、
あくまでそこで発表できることくらいか。それと、一応、その学会に属しているということで、
自分もそこの業界の人間なんですよというアイデンティティを曲がりなりにも持てること。
なので、自分の経験上、むしろ、ほどほどの規模の学会やほどよく小さな研究会の方が、
共同研究の機会や忌憚のないコメントなどをもらいやすく、そっちの方が研究活動を
進める上で為になることや、自分が研究者として飛躍できるチャンスに繋がることが多い。

今はネットが発達し、どこの学会でもホームページを持っていて、主な情報はだいたい
そこから入手できるようになっている。そのため、昔と違って、学会に足を運ばなければ
情報が入ってこないという時代ではない。それに、年に1回(学会によっては2回)の学術
大会や研究会は、何もそこの学会に入っていなければ参加できないということはないし、
学会員だって、非学会員と同様に大会や研究会に参加すればしたで、多少の割引は
あるにせよ、参加費は普通に徴収される。このような環境の変化のなかで、学会に
加入することの意義は以前に比べて相対的に小さくなっていっているように感じられる。

ということで、その人の考え方にもよるが、学会はそんなに多く入る必要はない。
何せ、7ヶ所も8ヶ所も入れば、年会費だけでもバカにならない。それだけのもとが
とれるならともかく、多くの場合はそうではない。学会はせいぜい2、3ヶ所で十分である。
その数ヶ所の学会とじっくりとよいお付き合いをしていく方が、戦略上でも賢いやり方であり、
研究者としてのキャリアの積み重ねに繋がっていくのではないかとあらためて思うのである。

2012/03/10

変化の著しい東アジアの社会と若者

このほど、勤務先の大学の日本語教員養成課程の学生実習引率の関係で台湾に行ってきた。
私の勤務先の大学は、台湾の有名私立大学であるF大学と協定関係を結んでおり、
その関係から、そこの大学の日本語学科で日本語を専攻する学生を対象に、毎年、
この日本語教員養成課程を履修する学生が日本語教育実習を行っているほか、
この台湾のF大学からも長・短期の留学生を受け入れている。

そこで、そこの学生たちや、街で行き交う学生たちを見ていて思うのは、若者の志向や
価値観が年々、良くも悪くも日本と似たようになってきていること。

少なくとも、90年代末までの台湾は、たしかに外見は一見日本人と似ている ようではあっても、
実際に話をしたり接してみると、自分の「国」の将来や 政治についても敏感でよく考えており、
日本の若者には見受けられないような気骨や逞しさのようなものが感じられることが しばしばあった。しかし最近は、服装など外見だけでなく、 台湾でも若者が「草食化」してきており、
良くも悪くも日本の若者と変わらないようになってきている。

その背景には、インターネットや携帯電話の普及など、メディア環境の 劇的な変化が後押し
していることはもちろんであるが、これ以外にも、 とりわけ台湾の文脈に照らして重要な点として、1990年代末以降、 地下鉄の路線の発達など交通インフラの急速な発達以外にも、
今の台湾の大学生は、もはや1987年の戒厳令解除以降に生まれた世代に 移行している
ように、台湾史のなかで重要な歴史的ターニングポイントとなる 時代を経験していない世代になっていることが指摘できる。

台湾について多少なりとも調べたことのある人なら、台湾社会は、 1987年の戒厳令解除に
伴って、1980年代末から1990年代初期にかけて 社会の文脈がガラリと変わったことは
周知の事実であろう。 1987年に戒厳令が解除されるまでの台湾社会は、国民党による一党
独裁政治が行われていたことから、社会には常に政治的な緊張感が漂っていた。
また、そうしたなかで、いわゆる「本省人」(1945年以前から台湾に住んでいる 漢民族)と「外省人」(戦後台湾に渡ってきた漢民族)のエスニック対立の構図が 根強く存在し、
それが政治のみならず、人々の思考や生活空間をも大きく 規定してきた。

しかし、今や台湾では、1987年以後に生まれた世代が大学生になっていることもあり、 この戦後台湾における「本省人」対「外省人」というエスニック対立の 決定的発端となった1947年の「2・28事件」さえ、ろくに知らない若者が増えて きている(まあ、もっとも、「外省人」の親はこの歴史的事件を迂闊に子どもに 教えたがらない傾向にあるから、台湾の今の若い世代があまりこの事件のことを 知らなくなってきているのも、無理もないのだろうが)。

このことは、ちょうど今回、2月28日前後に台湾に滞在していたこともあり、 台湾のメディアでも
大きく報じられていた。日本では、最近の若者は歴史を知らないこと、 歴史に無頓着である
ことが何かに付けて批判の対象となる向きがあるが、同様のことは今、 台湾でも起きている
のである。(実際に、2012年1月の台湾総統選では、 若者の投票率の低下を指摘する現地メディアもあった。これなどは、 少し前までの台湾ではあり得なかったことだろう。)

目を同じ東アジアの他の国に転じてみれば、同様の現象は中国や韓国でも見受けられる
ようになっている。中国でも、最近は、「80後」(パーリンホウ)といわれる、1980年代以降に
生まれた、いわゆる一人っ子政策施行後の世代、市場経済導入以降に生まれ育った世代が
すでに大学生、そして結婚適齢期に入っている。こうした彼/女たちは、(たしかに愛国主義
教育のもとで日中戦争期の日本に対して厳しい見方をしているものの、)政治に対する信頼や
感心も概して上の世代に比べて薄く、また都市部では消費社会の到来も後押しして、日本の
同世代の若者と同じか、むしろそれ以上に過保護に育てられていることから、日本の若者と
同じような価値観を持つようになり、場合によっては、日本の若者以上に若者の志向が
贅沢になっていることも指摘されている。

このような展開は、決して何も悪いことではないし、逆説的にみれば、過去の歴史に無頓着
であるがゆえに、かえってそれが、日本や台湾、あるいは中国など東アジアの若者同士で、
「目線を同じくした」交流や連帯を促進する上でプラスに働くこともあるのかもしれない。
実際、今の日本の若者も、過去の日本(人)がアジアに対して行った植民地支配や侵略の
歴史をよく知らないからこそ、逆に上の世代が持っていたようなこれらの国や地域に対する
先入観や優越感も小さい。こうしたなかから、新しい発想に基づいた企画や商品ができたりも
するだろうし、「国」のレベルや、従来の認識を超えた親近感さえ育まれる可能性もある。

最近の日本の女子高生や女子大生の間では、携帯メールでハングル文字を使ってコミュニ
ケーションを図るのが「かっこいい」現象となっていたり、韓国人男性との結婚が一つの憧れ
にもなっているそうであるが(ちょうどアジアの男性が日本人女性に憧れるのと同じように)、
こうした認識や発想が出てくるのも、いわゆる歴史に無頓着な世代であるからこそゆえに
成し得る展開であるともいえるだろう。

しかし、生まれ育った国や社会の歴史をろくに知らないという世代が大きく台頭するように
なった日本や台湾、中国、韓国などの将来は、今後どのようなものになるのだろうか。

何かと過去の歴史にこだわりすぎるのもどうかと思うが、やはり過去の歴史に無知な 住民が多くを占めるようになった国というものは、ひとつ気骨のある国にはなって いきにくいだろうし、日本に対する理解や関係も、「きれいな」表層的な次元のものだけに とどまりかねない。
その意味で、そうした世代が社会の中枢を担う世代として台頭してくる(あるいは今後していく)
ようになった東アジアの国々、そして日本とこれらとの関係は決して楽観視できる面ばかり
ではなく、正直にいって、無味乾燥なものになっていきかねないような感も否めないのである。

2011/12/27

風評被害とメディアの社会的責任

最近、メディアによる風評被害とか、「メディア・リテラシー」といった言葉をよく耳にする。

私が持っている1年生向けの演習授業では、ステレオタイプではない複眼的な思考法を
身に付けてもらうために、学生各自で簡単なテーマを設定し議論をして、それをフィードバック
させた上で学期末にレポートを提出してもらうようにしているが、そのせいもあるのか、今年は
思いのほか、「インターネットの利便性と罠」とか、「テレビの役割再考」とか、「メディアの功罪」
といったメディア絡みのテーマを取り上げる学生が多いのが目立つ。

メディアとは、人々に世の中の動向を伝えたり、多くの人々はどのように考えているのかという
一般的な見解を伝える役割を果たす媒体である。このように、メディアは世間に正しい情報を
瞬時に伝えるという役割や責任を負っている反面、その報道が果たしてどこまで正しいのか、
またその報道の仕方については常に問題視もされてきた。

このように、メディア報道のあり方についての批判は必ずしも今に始まったことではないが、
今回、そうしたメディア報道のあり方を大きく再考するきっかけとなったのが、皮肉にも東日本
大震災や福島原発での放射能漏れという出来事であった。これによって、マスコミやメディア
報道による風評被害というものがあらためてクローズアップされるようになったように思う。

「風評被害」とは、けっして間違った情報を流しているわけではないのだけれど、ある一面だけ、
あるいは報道する側に都合がよいと判断された部分だけがクローズアップされて報道されて
しまうことにより、そうした報道をされた側が必要以上のダメージを受けてしまうこと。
つまり、情報がもたらす「二次被害」のことである。

福島原発による放射能漏れのニュースが過大に報道されることによって、福島出身の
子供たちが他地域の転校先の学校でいじめの対象になったり、福島県産の農産物が
売れなくなったり、海外で福島の知名度が必ずしも正しくない方向で広がったり、
さらには北海道・東北・関東など東日本で外国からの人の流れが大幅に減少したり
などといったことが生じたことは、あらためて強調するまでもないだろう。

こうした東日本大震災絡みのニュースだけでなく、私も常日頃テレビを見ていて思うのは、
ちょっとしたニュースや天気予報なんかでも、報じる側に共有されている認識や、
「中央」の人の一方的な思い込みでもってニュースが報じられてしまう傾向がしばしばある
ことである。ほんとにどうにかならないものかと思う時もあり、これこそが、まさにメディアの
功罪である。さらに問題なのは、そうしたメディアによって報じられた必ずしも正しくない
メッセージが最も支配的な見解として世間に流布し、「メディア・リテラシー」が十分でない
子どもやそうした大人たちに、ある種のステレオタイプ的な見解やイメージを植えつける
ことになってしまっている点である。

たとえば、「中央」のテレビ局によって全国に報じられる北海道に関する報道は、なぜか
「雪」とか、「寒い」とか、「気温が低い」といった点ばかりが強調される傾向にある。これは、
おそらくアナウンサーや報じる側が持っているそうした内在化された「まなざし」が無意識の
うちに出てしまっていることが、そうした報じ方に繋がってしまっていると思われるのだが、
それによって、聴衆には「ま~、北海道ってたいへん」「寒くて重くて暗そう」といったあまり
よくない側面でのイメージ形成に繋がってしまいかねない。

しかし、北海道と一言でいっても、九州や、海外で言うと台湾より広い面積をもつ地域である。
ゆえに、そうした「中央」発のメディアが報じる北海道のイメージなんて、いってみればごく
一部でしかない。しかし、それがあたかも北海道全体がそうであるかのように語られてしまう。
もし日本の天気予報が、ニューヨーク発であったり、ロンドン発でなされるものであるとすれば、
そこまで北海道が「気温が低い」とか「寒い」というイメージで報じられることはないだろう。
見方を変えれば、北米やヨーロッパからみたら、東京よりもむしろ北海道の方がヨーロッパや
北米と気候風土や街並みが似通っていることもあって、そうした意味においては、北海道の
方が世界の先進国標準に近いといえるのかもしれない。

似たようなことは日本の他の地方に対しても同様にいえることである。私の友人に
大阪出身の人がいるが、その友人は、「関東経由のメディアは、大阪というと、いつも
決まって道頓堀だとか千日前だとかコテコテの大阪イメージのところばかり報じる。
けれど、大阪にだって、東京に負けないくらいおしゃれなスポットはいっぱいあるし、
上品なところだってある。けれど、関東のメディアはなぜかそういう『おしゃれな大阪』は
報じたがらないんだよね。最近じゃ、海外でも大阪=やくざの街とかってガイドブックなんかに
載っているらしいし。逆に、関東の人たちは、神戸に対してはおしゃれイメージがあるようで、
若い女性が読むようなファッション雑誌はみな東京・横浜か神戸なんだよね。横浜なんかは
『エキゾチックな港町』というキャッチフレーズで語られて、多くの人たちもそうしたイメージを
持っているけれど、あそこには日本三大ドヤ街のひとつといわれるエリアもあるからね。
上手いイメージ戦略や」と語っていた。その友人は、「このところの関西の地盤沈下は
こんなところにも一因があると思われるから、私は東京なんか大嫌いだ」と強調していた
ことを思い出す。

(これと逆のケースは沖縄である。ご存知の方も多いと思うが、90年代に入るくらいまでは、
多くの日本人にとって沖縄のイメージは決して明るいものではなく、他のアジアの国々に
対してと同じように、どちらかといえばあまり肯定的なものではなかった。ところが、90年
前後を境に、「中央」発のメディアの報じる沖縄イメージがガラリと180度転換し、明るい
ポジティブなイメージに変わった。今では、東京に出てきて沖縄出身というと羨ましがられて
脚光を浴びるらしく、昔は差別と偏見の対象であったのとは大違いである。
これも、メディアの沖縄に対する報じ方が大きく変わったことが最も強く関係していると
思われるし、実際、「沖縄移住ブーム」なるものも、こうしたメディア経由によって促進された
部分も大きい。)

このようにみると、日本の地域や都市のイメージは、日本国の首都である東京つまり
「中央」の発するメディアによって必ずしも正しくない画一的なイメージを植え付けられて
しまっているといえる。しかも、単にそうしたイメージ形成だけにとどまるのならともかく、
それが実際、経済活動や産業の活性化、ひいては人口の流出入にも影響を与えるようにも
なっている。こうした点は、とくに地方の場合、直に地域の活性化や衰退にかかわってくる
のだから、メディアの功罪はたいへんに大きい。

したがって、各テレビ局や新聞社などメディアは、今回の東日本大震災や福島原発の件で
クローズアップされた風評被害を契機に、あらためてそうした社会的責任を世間に対して
負っているのだという自覚をもって、番組の制作やニュース報道にあたっていただきたいと
思うものである。

2011/12/05

かわいいな、この猫

またまた猫の話だが、youtubeでとってもかわいい猫をみつけた。
その名は、「歳三」。
名前から来るイメージとはちょっと異なるけれど、とにかくかわいい。
かわいいにも程がある!けっこう大きいけれど、でも大きくなっても
こんなにかわいいだなんて、飼い主さんは大当たりだな。
なかなかの美猫。





猫の好きな人は結構多い。
最近は、全国いたるところに「ネコカフェ」なるものができていて、
けっこう繁盛していると聞く。「ネコカフェ」は、イメージ的にはなんとなく女性が
多そうな印象があるが、男性も少なくないとか。

最近、家族社会学なんかでは「ペットは家族か?」なんて議論があるらしい。
たしかに、自分の友人でも、数年前、年賀状の夫婦の名前の後に
一見子どもの名前かと思われる名前があって、「あれっ、この夫婦って子どもが
いないはずだがおかしいな」と思ったことがある。そこであらためてその友人に
尋ねてみたら、なんとそれが猫の名前だと分かって、思わず微笑んだ記憶がある。

私の猫好きはこうした議論とは無関係なところからきているのだが、
少子化が進んで子どもの数が少なくなったり、都市部での単身者が増えたり、
さらに世の中が「個人化」したり世知辛くなったりして、人との「繋がり」や「絆」の
大切さがあらためて求められたり見直されるようになればなるほど、おそらく
こうした議論がよけいに前面に出てくることになるんだろうなというような
気がする。そして、そんななかでの一種の「安らぎ」をペットに求めるという
構図が出てきたりもするのだろう。

2011/11/16

「なでしこ姫はグローバル結婚市場での『勝ち組』」って??

最近、日本人女性の国際結婚に関して、ちょっと面白い記事を見つけた。

元の記事は日経ビジネスオンライン。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110202/218254/

以下、記事をそのまま引用。

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なでしこ姫はアジアをめざす
日本人女性がもてる3つの理由
なでしこ姫はグローバル結婚市場での「勝ち組」

なぜ、日本人女性は、海外でもてるのだろう。私は、海外で現地の富裕男性と結婚している日本人女性を見るたびに、日本人女性は海外の結婚市場での「勝ち組」といってよいのではないかという思いに駆られる。

今回の調査でも、日本人女性の方は、現地のアジア人が好きだから結婚したという人はいなかった。ましてや、結婚相手を見つけるために、アジアに渡ったという人はいない。逆に、彼女たちから、「どうも夫は日本人女性が好みらしい」とか「私が日本人だから声をかけたと言われた」という
話を聞かされる。

場所はアジアである。欧米なら、エキゾチックで小柄な東洋人の一員として日本人女性が好まれるというのも分かる。米国や欧州で国際結婚している日本人女性は多いが、同じように中国人女性、韓国人女性も多い。モンゴロイドが主体のアジア諸国(東、東南アジアなど)では、背格好や顔立ちが現地の女性とそれほど違っているわけではない(トルコは多少違うが)。差はあったとしても、
個人差の方が大きい。しかし、アジアにおいても、どうも「日本人」女性の人気が高いのだ。

日本人女性は「小綺麗」で「かわいい」
話に聞くところを総合すると、日本人女性がもてる理由は、次の3つに整理することができる。1つは、容姿など外見の要素。2つ目は、態度、性格に関する要素。そして、最後に「日本人」というブランドである。そして、この3つとも、当たり前のことだが、日本にいる限り目立たないし役立たない。周りに日本人女性しかいなければ、本人もそれがもてる要素だと思わないし、日本人男性も気づ
かない。グローバル化が進んでいるとはいえ、比較できるほど多くの未婚の外国人女性が身近にいないからである。だから、海外に出て、初めて、日本人女性は、自分がもてることに気づくので
ある。

まず、1つ目は、その外見である。総じて、日本人女性は「小綺麗」なことである。それは、服装や
化粧など外見がそつなく「手がいれられている」ことによる。香港で言われていたのは、現地の
女性は、普段は脇毛も含めて「むだ毛処理」をしないそうである。私のゼミの中国人女子留学生に聞いてみたところ、日本に来るまではむだ毛処理など面倒なことはしなかったし、周りでしている
女性はいなかったそうである。

また、日本人は、服装も、普段着でも、かわいくファッショナブルな服装で身を固める。高級品
でなくても、髪飾りから靴下まで、かわいいものを身につける。そして、化粧、ヘアスタイルにも
気を遣っている。日本人女性は、世界的に見て、日常生活している自分をかわいく魅力的に
見せる技術に長けているといえる。そのための女性ファッション誌が大量に発刊されている
ことを見れば分かる。

日本にいれば普通の外見をしているだけでも、アジアにおいて、いや欧米においても、現地の
女性と比べて「垢抜けている」、つまり、ワンランク上の女性のように見えるのである(ただ、
韓国や中国の大都市では、日本発の「かわいい文化」が急速に流入しているので、この点での
有利さは長く続かないかもしれない)。

2番目は、性格の要素である。世界的に見て、日本人女性は控えめで男性をたてると言われて
いる。これも、日本にいて、日本人女性とじっくりつきあえば、自己主張がないわけではない
ことが分かるのだが、海外に行くと見方が違うのだ。

日本で普通にやっている家事を海外男性は喜ぶ
例えば、デートしていてランチをどこにするか決めるとする。海外の女性は自分でイタリアンが
いいとか、中華が食べたいとか言って2人で交渉する。しかし、日本人女性は、まず、何がいい
かと男性に聞くのである。そして、男性が-と言ってそれが気に入らなければ、どうしようかなと
あいまいに答える。そして、最後に自分が好きなものを男性に言わせて、それでいいわと答える。日本では、男性も含め、普通のコミュニケーションパターンである。男性ならば決断力がない
男性とみなされるが、女性なら相手をたてる控えめな女性と受け取られるのだ。

また、家事もそうである。日本の女性の家事水準はまだまだ高い。多くの日本人女性は、
主婦の母親に育てられているので、毎日違った献立を作る、そして、部屋を自分できれいに
するのは当たり前である。

しかし、香港やタイなどでは、中流以上の家庭ではメイドが料理や掃除をする。現地の女性は
家事はあまりしないのが普通なのだ。その中で、料理を作ってあげるだけで、それを自分への
愛情から出たものと勘違いする海外の男性が多いのだ。単に自分で食べるついでに食べさせて
あげているだけでもである。

これは、欧米でも同じで、スイス人男性と結婚し、米国で共働きしている私の知り合いは、毎日
違った味付けで夕食を作るだけで喜ばれ、洗濯掃除は夫が全てやってくれるそうである。彼女は、私は、日本では料理が一番下手な女性だと思ったら、米国では一番うまい人になっていたという。

欧米では、夫婦共働きが普通になって久しく家事が合理化されている。普段の食事はレンジで
チン、洗濯は週に一回で済ますという家庭が少なくない。そんな中で、肉を毎日違った味付けで
焼いたり煮たり炒めたりするだけで、感動してくれるそうだ。

つまり、外見にしろ、態度、そして家事にしろ、日本で普通の女性がやっていることをするだけで、海外の男性は喜んでくれるのだ。そして、海外男性は、その喜びを言葉と態度で表現してくれる。
それで、日本人女性は、彼氏が喜んでくれるのでやりがいを感じ、「好循環」が作り出される。
しかし、日本ではそれが当たり前だから、日本人男性はそれだけで喜ぶわけではない。

そして、最後が「日本人」というブランドである。どうも、アジアでは、日本人女性と言うこと自体が
男性の「あこがれ」の対象になっている部分がある。

欧米では、オペラの蝶々夫人や香水のミツコなど、日本人女性は「清楚で控えめ」といった
イメージがついてくる。また、エキゾチックな東洋文化の国として日本は捉えられている。
それは、東洋に関心がある一部の人にとっては、魅力的かもしれないが、一般の人にとって、
日本人女性にブランド価値があるわけではない。

では、アジアではどうなのだろうか。
香港在住の日本人男性に聞いたところによると、香港では、日本人女性のことを「日本妹」と
呼ぶそうである。妹ということで、欧米人のように異質ではなく、また、かわいいということを
表現しているという。

そして、いつまでもつかは分からないが、日本は、アジアの中ではいち早く西洋化を遂げ、豊かに
なった国として一目置かれている。つまり、われわれ日本人が欧米人に対して持つような尊敬と
コンプレックスが混じり合ったイメージと思ってよい。日本人が、車にしろ欧米のブランド製品を
高級品と位置づけるように、アジアでは日本製品は高級品として位置づけられている。

ワンランク上の存在が「日本人女性」
それと同じように、アジアの中では、過去の歴史的経緯があるため、好き嫌いはあるにしろ、
イメージだけは高級なのだ。特に、トルコ人は、ロシアに勝ったアジアの国として日本に対して
好印象を持っている。

男性は結婚相手に、より高いブランドを求める。結婚相手のレベルによって男性の間での評価が決まる面があるからである。国際結婚で言うならば、欧米なら日本人女性と結婚することは趣味の問題となるが、アジアなら、うらやましいという目で見られる、つまり、ワンランク上の日本人女性と結婚できたと言うことで、男性の間での評価が高まるのである。

以上が私の見たところの日本人女性が、国際的にもてる理由である。

もちろん、日本人であることだけでもてるということではないが、特にアジアでは、現地の女性に
比べてたいへん有利であることは確かである。

ただ、1つポイントがある。それは、語学力である。アジアの富裕層の未婚男性は、たいがい
英語を話す。グローバル化している社会では、英語を話せなければ、仕事にならないのだ。
一方、日本語を学ぶ人は、極めて少ない。いくら日本人女性にブランド意識をもっていても、
コミュニケーションをとれなければ意味がない。つまり、アジア人の富裕な未婚男性と知り
合ったり、親しくなったりするためには、現地語か英語能力が必要である。実際に、われわれが
調査したケースでは英語でコミュニケーションをとっている夫婦がほとんどである。

逆に言えば、英語がある程度話せる日本人女性は、アジアでかなりの程度もてると考えて間違い
ないし、きちんとした英語が話せるアジア人男性は、だいたい富裕層に属するからその点でも
安心なのである。

(次回につづく)

2011年2月8日 火曜日
山田 昌弘
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とまあ、こんな記事なんだけど、ちょっと動機が不純でミーハー、また分析も楽観的で眉唾
もののような感じもするけど、面白いので載せてみた。

ここで書かれてある山田先生の分析って、たしかに一理あると思うけれど、あの「パラサイト
シングル」「婚活」で有名な山田先生が書いたものだからこうしてマスコミに取り上げられて
話題になっているだけであって、似たようなことは、私のような研究者も含め、これまで
いろいろな方面の人が指摘してきていることであり、とりたたて目新しい分析でもないような
気がする。

ちょっと疑問に思ったのは、「勝ち組」といっているが、それは具体的に、いったい何をもって
そのように言っているのだろうか?おそらく、ここでいわれている「勝ち組」とは、単に「モテる」
「ちやほやされる」という次元のことを言っているように思えるが。。。(上で書かれてあるような
日本人女性なんて、おそらくほとんどはイメージ上のものであって、いまどきの若い日本人
女性で、そんな人なんて実際はほとんどいない。)

たしかにアジアでは、日本人女性はモテる傾向にあるけれど、日本人男性だってけっこう
モテる。まあ、そのモテる理由が、主に「経済力がある」ということだから、日本人女性が
モテるのとは理由が異なるのだろうけれど。。。

なお、上の山田先生の調査によれば、香港では日本人女性が「日本妹」と呼ばれている
とのことだが、ちなみに台湾でも、中国大陸出身女性が「大陸妹」と呼ばれているのを
ご存知だろうか?

ただ、台湾で中国大陸出身女性に対してこのように形容されているのには、「かわいい」と
いうよりも、どちらかといえば、仲介業者まがい、あるいはあまり望ましくない不法的な形で
台湾にやってきて、台湾人男性のある種「奴隷」になるような大陸女性たちのことを指して
言っているような意味合いが強い(かつてアメリカで日本人女性が“yellow cab”といわれて
いたのと同じように)。したがって、香港で今、日本人女性に対して「日本妹」といわれて
いるのにも、「かわいい」以外にももしこのような意味合いも込められているのだとすれば、
香港男性の日本女性に対する“もうひとつの”イメージ、また一種の日本と香港の経済的・
社会的な関係性の逆転や変化を象徴していることの現れとも読み取れ、それはそれで、
興味深い。

ちなみに台湾は、ここはアジアでも国際結婚の日本人男女が多く住んでいる地域であるが、
日本人女性×台湾人男性、日本人男性×台湾人女性の結婚もとても多い反面、離婚もかなり
多い。現に、私がかつて聞き取りをしたことのある台湾の某日本人組織の役員の話によると、
離婚の相談もたいへん多く寄せられ、今、離婚相談もその組織の主要業務の一つに伸し
上がっているそうなのである。

国際結婚というものは、今のグローバル化の時代、一見、華やかに映る側面もあるのかも
しれない。しかしながら、日本と文化的に近いといわれる台湾人との結婚でさえ、このような
状況なのであるのだから、言葉や文化、習慣や考え方の差が大きい者同士の結婚という
ものは、そのようなイメージとは裏腹にいろいろ厄介なことも多い。
ゆえに、ただ恋愛や憧れの対象として見ているとか、付き合うだけならともかく、日常生活と
なると、なかなか長続きしないことも多いという現実も決して忘れてはならないだろう。

山田先生には、こうした国際離婚の現実についてもしっかり調査して取り上げてほしいと思う。

ただ、最近も、日本女性の平均年収が300万以下の人が7割を超えたということがニュースで
報じられてように、日本で希望する仕事に就けず、正社員になれず、かといって自分の希望や
欲求を満たしてくれるような条件のいい男性にもなかなか出合えないということで辛酸なめて
いる日本女性たちはたしかに増えている。

それだったら、アジアに行った方が「日本人女性」ということでモテてるしちやほやされることは
たしかなので、その結果、現地の富裕層の男性と知り合って結婚に至るチャンスや可能性も
高くなる。今はネットも発達しているし、アジアでも都市部に限れば日本と比べてそれほど生活も
不便ではない。それに、現地人と結婚すれば、外国人とくに女性が海外で長く安定的に生活して
働く上で、何だかんだいっても、やはり一番有利で確実な滞在資格となる配偶者ビザも取得
できる。ということで、日本で辛酸なめているんだったら、アジアに行くという選択肢も、今の
多くの日本人女性にとっては、グローバル化する社会のなかでの一種の賢い生存戦略といえる
のかもしれない。

2011/11/06

蛇を食べる猫? けれどやはり猫はカワイイ

いまさら言うまでもないけれど、私は猫が大好き。
猫ほど可愛い動物はない。お顔のパーツ、姿かたち、鳴き声、しぐさ、とにかく全てがカワイイ。
リスやウサギなんかもカワイイけれど、ねこは本能で生きている感じのところがまたいい。

けれど、猫は蛇を見かけると放っておけないらしく、蛇とじゃれあって遊ぶどころか、
なんとyoutubeでカワイイ猫が蛇を完食する姿を見つけてしまった。





たしかに思い出してみれば、昔、自分の実家の玄関の入口のところに、
猫が蛇を置いていったことなんかあって、びっくりしたことがあったな。
また、近所の野良猫が何かとじゃれ合っているなと思って近づいてみると、
なんとそれが蛇だったり。。。

猫にしたら、蛇なんて、おもちゃか紐にしか見えないんだろうか。。。
こうあらためて考えてみると、猫って結構野生的な動物なのだろう。
(まあ、いうまでもなく猫は肉食動物だし。。。
でも、やはり私の中では気持ち悪い蛇とカワイイ猫は結びつかない。)

けれど、そんな猫でも、やはり猫はカワイイ。私は猫が大好きなのである☆

2011/10/19

非生産的な大学教員採用人事における「カラ公募」

10月も半ばを過ぎ、自分の知人や周辺でも、早いところでは、もう来年の大学教員人事の
決定状況がちらほらと聞こえてくるようになりました。

大学教員の採用は、一般企業などの採用とはかなり異なった側面をもっております。
もちろん、公募によった場合、応募者の中から、さまざまな要素を勘案して第一位になった
者が候補者として選考委員会から人事委員会に推薦され、さらにそこから教授会にかけられて
採用が決定されます(私立大学の場合は、教授会の後、さらに理事会にかけられます)。

実際、選考にあたってどの点にポイントが置かれるかは、大学ごとでの一律な基準などは
もちろんなく、また、同じ大学内でもポストによってかなりケースバイケースです。さらに、
当該人事において採用の決定権を持っている人物の主観や判断基準によってもかなり左右
されやすいのは、むしろ一般企業などの採用人事以上かもしれません。

大学教員人事は、かつては学会など業界のルートや、当該大学の教員の人脈を通して採用が
行われることが一般的だったのですが、現在は文科省の指導によって、大学教員人事は
基本的に公募によらなければならないとされており、最近は、「JREC-IN」という、それ専用の
サイトまでもできております。また、昨今は、大学基準協会による大学評価との絡みでも、
公募で採用する方針を採らないといけないような動きになってきております(そうでないと、
大学評価の際に、「勧告」対象になりかねません)。

このように、現在では、応募している大学の情報がインターネットを通じて行われることが多く
なりましたし、募集先の大学も自分の大学のホームページに載せることが一般的になりました
ので、全国のどこの大学でどのような公募が出ているのかの情報は、以前に比べればかなり
容易に把握できるようになりました。

しかしながら、厄介で、かつ広く問題となっているのは、どこからどこまでが「本当の」公募なのか
募集情報だけではなかなか判断がしにくいこと(ただし、条件がやたら細かい、募集している
専門分野があらかじめけっこう限定されている、応募書類に推薦状を要求してくる、書類選考の
段階から健康診断書の提出を求めている、募集期間が短いなどといった場合は、「カラ公募」の
可能性大です)。実際、すでにターゲットとしている候補者が存在するにもかかわらず、最近は、
文科省から「公募によって採用せよ」と行政指導が入っていることもあり、見掛け上の公募、
つまり「カラ公募」が後を絶ちません。実際、私の経験も含めて判断すると、公募している教員
ポストの多くは、多少の程度の差はあっても、この「カラ公募」に該当するといっても過言では
ないと思います。

「カラ公募」するくらいなら、最初から「ウチは、こうこうこういう人が欲しいから、この人を採用
する」と公言し、「一本釣り」した方がはるかに分かりやすく公平だと思うのは何も私だけでは
ないでしょう。

「カラ公募」ほど、応募側と採用側の双方にとって非効率なものはありません。

なぜなら、応募者は面倒な応募書類を手間暇かけて作成して郵送します。ですので、
履歴書の写真代はもとより、論文のコピー代、郵送費用などもけっこうバカになりません
(何しろ、大学教員への応募書類ほど、応募先に合わせて書類を作成しなければならない
ものはありませんので)。

一方、採用側は、すでに候補者がいたとしても、一応、形式的なものにせよ選考委員会なる
ものを組織して、決して少なくない時間を人事に注ぐことになります。そのためには何度か
会議も開かなければなりませんので、本来なら教育や研究に注ぐべきはずの時間を削いで、
結果的に教員採用人事にあれこれ手間暇をかけることになります。おそらくこんな現状も、
昨今の大学教員が学内行政や雑務によけいに忙殺される一つの大きな要因になっている
といえます。

それに、仮にもともとターゲットとなっていた候補者が「カラ公募」によって採用されたとしても、
長期的に見ればその人のためにもならないように思います。大学教員をしていると分かる
のですが、選考委員会やその周辺のメンバーの中には、「カラ公募」をよく思っていない人も
少なからずおります。ですので、採用されてからも、どこかでそのことが話題に上ることも
少なくありませんし、最初からその人が色眼鏡で見られる場合もあります。

大学教員採用人事が公募によって行われること自体は決して悪いことではありませんし、
私は、むしろそうした傾向はもちろん望ましいと思います。ですが、実際は、「形だけの公募」
「名ばかり公募」では意味がありません。各大学が、無駄な「カラ公募」をしないようにする
ことはもちろんですが、文科省にも今度はそうした「形だけの公募」「名ばかり公募」を
何とかして排除する手立てやチェック機能の考案をお願いしたいものだと思います。

2011/09/07

対照的な北海道と沖縄への観光客と人の流れ

数日前から調査のために石垣に来ています。

今回、石垣には羽田から那覇を経由して石垣入りしました。
そこで、改めて感じたのが、羽田空港と那覇空港での国内観光客のすごい人の列。。。
夏休み最後の時期ということもあってか、大学生っぽい人たちの集団が目立ちました。
彼らの陰に隠れてしまっているせいもあるのでしょうが、ビジネス客や外国人は、
どうやらあまりいなさそう。羽田空港でも、那覇空港でも、沖縄本島でも石垣でも
感じたのですが、沖縄はやはり日本本土の人から人気のある場所であるということ。
今の沖縄は、年中いつ行ってもうざいくらいに本土の観光客で溢れかえっています。

ここであらためて、人々は観光に何を求めるかといえば、それはひとことでいって「非日常」。

つまり、人々が旅に対して求めるのは、普段の生活では目にすることができないような
風景や体験。それゆえに、日本人の多くは、本土とは地理的にも文化的にも気候的にも
異なる沖縄が憧れの観光地となるのでしょうね。そしてまた、沖縄にアジアに通じるものを
求めたり、あるいは見出す日本人もまた多いのです。

逆に、沖縄と同じ国内有数の観光地である北海道は、新千歳空港や新千歳行きの便に
乗れば分かりますが、日本人はビジネス客の姿が目に付くのと、観光客は圧倒的に台湾、
香港、中国、韓国などアジアの人々。

さきほどもいったように、人々が観光に求めるのは「非日常」。
つまり、アジアの人たちにとって北海道が人気の観光地となるのは、
北海道にはこうした国や地域では日常的になかなか体験できない食べ物であったり、
自然や風景であったり、モノがあったりするため。
以前、何かの意識調査で見たことのあるデータでは、台湾をはじめアジアの人々が
日本観光に求めるのは、「食べ物」「買い物」「温泉」「雪」が上位に来るのだそうです。
それと、清潔で整然とした街並み。

私が以前、ある台湾人のブログを見ていたら、その人は北海道に旅行に行ってきた
ようなのですが、富良野の風景がブログのトップページに飾られていて、
なんと北海道を「亜洲的欧洲(アジアのヨーロッパ)」とまで形容していました。
最近は、台湾やマレーシアなどで売られている北海道ガイドブックにもそのような文言が
散りばめられていて、「なるほど、アジアの人たちは北海道にヨーロッパを見出している
のだな。台湾人とかはヨーロッパが好きらしいけど、北海道は同じアジアで気軽に行ける
ヨーロッパというように捉えられているのだな」と感じた次第です。

このようにアジアの人たちにとって北海道が人気のある観光地となっているのですが、
それでは国内観光客に人気のある沖縄については、アジアの人たちは
どのように思っているのでしょうか?

以前、私は数人の台湾人に「沖縄は台湾から近いよね」というようなことを言ったら、
「沖縄はあそこは私たちが求める『日本』じゃない」「えっ?沖縄?あまり興味なーい」と
いったような反応が立て続けに返ってきました。
まあ、台湾人にとって沖縄は風土的に似たようなところですからね。

ならば、「そのチャンスがあるなら沖縄に住んでみたい?」って聞いたら、
それでも彼らは「えーっ」というような感じで、首を横に振ったのです。

観光なら人はそこに「非日常」を求めるから沖縄にはとくに憧れないというのは
分かるんだけど、「住む」「暮らす」となったら、台湾と風土的に近い沖縄だったら
逆にいいんじゃないのというような趣旨のことをいったら、「だって、面白いものが
ないんだもん」「沖縄は田舎で刺激が足りないし何にもない」というような反応が
返ってきました。なるほど、彼ら/彼女らの消費生活に満足できるようなところではない
ということなのでしょうかね。この点、北海道なら、自然もあるけれど札幌のような
全国有数の大都市もあるので、自然も楽しみながら買い物もできますしね。
なるほど、彼ら/彼女らの欲求を満たすわけです。

すでに国が大きく発展して、富裕層や中間層が台頭し、国民の所得水準も向上し、
消費社会化してしまった今の台湾にとっては、風土的に似ているからというような要因
だけにとどまらず、こうした意味においても、とくに若い世代には、沖縄はあまり
魅力的なところとは映らないのでしょう。リゾート地ということなら、台湾人とか
アジアの人たちにとっては沖縄よりもプーケットやバリ島、そしてマレーシアの
コタキナバルなんかの方がずっと人気が高いようなのです。
(ちなみに、不思議なことに、台湾で台湾人向けに募集されている沖縄ツアーの
観光コースには、日本本土の観光客には定番の「海」「リゾート」といった
観光コースはほとんど出てきません。)

一方、単に北海道と沖縄における観光客の多い国・地域の違いだけでなく、
北海道と沖縄では、アジアからの観光客の旅行形態や滞在形態にも違いが
見受けられます。

最近は、北海道で飲料水を目当てに土地を買い占める中国人も増えているし、
アジアからの個人旅行者やリピーターも非常に多い。
沖縄におけるアジアからの観光客は団体旅行客が多いのに対し、
北海道では今ではアジアからの個人観光客が増えています。

このように、沖縄は国内観光客に人気のある観光地または長期滞在先であり、
逆に、北海道はアジアからの人々に人気のある観光地または長期滞在先となって
いるのですが、北海道側としては、沖縄に国内観光客が押し寄せたり移住者が
増えるのを羨ましく思っているようで、逆に沖縄側は、北海道に台湾や中国など
アジアからの観光客が向かうのを羨ましがっているようなのです。
石垣では、「北海道はいいですね。石垣にももっと台湾人観光客が来てほしいと
思っていて、最近、台湾側でプロモーションをやったりもしているんですけど、
どうも北海道が台湾人に人気があるようで。。。」といった“台湾への片思い”の
声がよく聞こえてきます。

どうやら、ないものねだりなのが人の常なのですね。
でも、そうかといって今度は石垣や八重山がもう少し台湾人が「日本」に対して
求める要素を観光で提供すればいいかといえば、それでは石垣や八重山という
地域を日本本土に対して差別化することはできないし(それにまず、そもそも
風土や文化の違いから完全にそうすることは無理)、今度は日本本土の観光客が
減ってしまいかねない。なかなか難しい問題です。

2011/07/12

岐路に立たされる「日本型お嬢様大学」

戦前から戦後のある一時期まで、女性が高等教育を受けることに対してその途が限られていた
日本では、「お嬢様学校」という存在をありがたがる傾向にあります。
一般に、「お嬢様学校」の多さ、またそれがステイタスという発想が強い地域であるかどうかは
人口や富裕層の多さにも比例しますので、やはりそうした層が厚く、「お嬢様学校」がマーケット
として成立しうるような首都圏や関西(京都や神戸)といった大都市圏ほどその傾向が強いと
されています。

一口に「お嬢様学校」といっても、そこで話題の対象に上ってくる学校名などをみると、
何をもってそう定義するのかについてはなかなか統一した見解がなく、人によりさまざまですが、
多くの人の意見を参考にすると、だいたい次のような基準に該当するところが世でいう「お嬢様
学校」に該当すると考えてよいでしょう。

<最低限の必須条件>
①キリスト教主義の学校である(この場合、カトリックかプロテスタントかは問いません)
②歴史が長く伝統がある
③小学校か中学校から大学まで持っている

<その次の必須条件>
④祖母、母、娘、姉妹が揃ってそこの学校の卒業生であるケースが多い
⑤卒業生に著名なOGがいる
⑥その学校が所在する地域での評判がよく、愛されている



「お嬢様」の定義には大きく二通りあると思われます。一つは、財閥や旧家のご令嬢といった
意味での資産家のお嬢様、そしてもうひとつは、家柄はそこそこだが、堅実で保守的な親に
大切に育てられたお嬢様(箱入り娘)です。

前者は、大学でいうと、伝統的には関東のK大学、G大学、S女子大学、関西のD大学、
K学院大学などに多いとされますが、後者は主に、関東のそこそこ知名度のある
キリスト教系の女子大のほぼ全てと、首都圏や関西以外の地方にある(地方といっても
比較的大きな都市に限定されますが)上記6つの条件を備えたキリスト教系の伝統ある女子
大学がこれに該当します。

このように、同じ「お嬢様」でも、前者の財閥や旧家などの資産家のご令嬢といったタイプの
お嬢様大学は共学の大学もそこそこ存在し、最近は旧帝大クラスの難関国立大学にも
そうしたタイプのお嬢様が増えつつありますが、後者の保守的な親に大切に育てられた
箱入り娘タイプのお嬢様が多い大学は、ほとんど女子大に集中していることが分かります。
こういう後者のタイプの女子大を私は「日本型お嬢様大学」とみなしています。

これら後者のタイプの女子大学は、総体的にみて、どちらかといえば、よくいえば温和で
穏やかな校風を持っていて、学生を大切に育てますが、悪くいえば、学生に何でもお膳立て
して過保護に育てる傾向にあります。また、大学側も、「これからの時代に対応できる女性を
育成する」などと謳い文句をうたっていても、根本のところでは良妻賢母志向で、また時には
時代錯誤と思えるほど意識が古いのは今もあまり変わっておりません。ですから、そうした
大学に学んでいる女性たちも、周りから何かかっちりしたものを与えられて、その中で物事を
こなしていくという意味での能力は決して低くはありませんが、自ら主体的に物事を考えて
行動し、周囲を取りまとめて行くような「自発性」「リーダーシップ性」を持った女性というのは
なかなか育ちにくく、さらにいえば、同じ女子大学でも、自由や革新性、自主性を尊重する
プロテスタント校よりも、保守的でガードが固いカトリック校の方がその傾向がより強いように
思われます。

高度経済成長期~バブル期の頃のように、企業が大量に一般職OLを採用していた時代は、
女性社員には与えられたものを率なく無難にこなす能力が求められましたし、そうした女性
たちは正社員である自社の男性と結婚して専業主婦になることがよしとされていたので、
こうした後者のタイプの「日本型お嬢様大学」はそれなりの機能や役割を果たしていた
わけです。

しかし今のように、不透明で変化が激しく、女性にも即戦力として周囲の意見を取りまとめ
ながらリーダーシップを発揮していくことが求められる時代においては、こうした後者の
タイプの「日本型お嬢様大学」が果たしてきた役割というのは、ほぼその使命を終えたと
考えられます。(前者のタイプの旧家財閥・資産家型の令嬢であれば、やはりコネで
押し込んでもらえるだけの家柄からくる強さからがあるので、雇用の変化による影響は
今のところそれほど受けずに済んでいるのでしょうが。。。)

ちなみに、日本のカトリックの「お嬢様学校」というのは、ほとんど小中学校から持っている
のですが、初中等教育までなら、いってみれば与えられたカリキュラムをいかに忠実に
こなすか、教科書のようなテキストによって与えられた知識をいかに吸収していくかが主に
なりますので、規則にしっかり縛られるような、そして過保護すぎるくらいの教育でもよいと
思います。

しかし、高等教育段階である大学では、そうした何か枠組みをあらかじめがっちりつくって、
そのなかに守るような感じであてはめていくような小中高までの教育と同じような方針や
認識では、学生の自発性などというものは到底育つはずもないのです。
しかも、そうした教育方針のもとで育った女性は概ね依存心が高く打たれ弱いですから、
それこそこれからの時代に求められる女性というのはなかなか育ちにくいのでしょう。

また、こうした理由が、世間で「お嬢様学校」といわれる女子校において、女子大に併設
されている附属の(小)中高から、かつてのように、そのまま上の大学に上がる生徒が
少なくなり、さらには外部からも優秀な女性が集まりにくくなって、女子大の相対的な
レベルや質の低下を招いている一因にもなっているものと思われます。実際、今の
日本のこの「女子大厳冬の時代」においては、女子大全般が凋落傾向にあることには
変わりませんが、そのなかでもよりその傾向が大きい女子大に共通してみられる傾向
としては、主に①学長のリーダーシップをはじめ、経営陣が概して必要以上にマイナス
志向というか保守的で新しいことを好まない、②学校側も過去の伝統や栄光に胡坐を
かいている、という点が指摘できます。

主にこんな要因が、「日本型お嬢様大学」の低迷に繋がっているように思われるのですが、
それにもかかわらず、日本ではなぜ未だにこういうタイプの女子大学をマスコミが持ち上げ、
また実際に世間でもありがたがる風潮にあるのか、私にはよく理解できないのです。

2011/07/09

留学のハードルが低下している今、あらためて留学することの意味を問う

最近、メディアでは、アメリカに留学する日本人の減少がしきりに報じられています。
ハーバード大学でも、中国や韓国からの留学生は急増しているものの、日本人はそれに比べて
数えるくらいしかいなくなっていることから、大学側が日本で留学説明会を行ったりしていますし、
最近は日本の政府側も「若者よ、海外に目を向けよう、海外に出よう」などと、しきりにアメリカ
留学を促すような展開に出ています。(NHKなんかも、しきりに「ハーバード白熱教室」を放映
しているのも、国民とりわけ若者のアメリカ留学やハーバード大学自体への関心を高めようと
必死になっているためです。)

たしかに欧米圏への留学は最近は減少傾向にあるものの、目をアジア圏に転じてみると、
逆にアジアに留学する日本人は増加傾向にあるのです。しかし、このような現実をなぜか
日本のメディアはあまり伝えようとしません。(こうした現状をみると、なんだかんだいっても、
日本のメディアや政府側の欧米を上位とみなす認識は、まだまだ変わっていないんだななんて
思ったりもします。)

まあ、それはともかくとして、アジア圏、とくに中国や台湾など中国語圏に留学する日本人は、
アメリカなど欧米圏に留学する日本人が減少しているのとは対照的に増える傾向にあります。
アジア圏(ここでいうアジア圏とは、とりわけ東アジア・東南アジアを指しますが)では、その
特有の歴史的・政治的な背景やそれに絡む社会事情と関係して、国内の高等教育機関が
拡大発展してきたのは、概ね90年代に入ってからといえます。アジア圏においては、自国民の
高等教育は主に欧米への留学や植民地時代の宗主国への留学によってなされてきたため、
国内の高等教育機関の整備は戦後しばらくはなされてきませんでしたし、長らくそういう状況に
ありましたので、留学生受け入れのための制度が整ってきたのも、せいぜいこの20年弱の
間でしかありません。

たとえば、中国では、外国人留学生の受け入れが正式に始まったのは改革開放が実施された1978年からですし、台湾においても、留学生の受け入れに向けた制度が整い始めてきたのは、1990年代に民主化が加速化する中で、国内の高等教育機関の「本土化」が進むようになって
からです。こうした事情から、中国や台湾をはじめ、アジア圏の国や地域では、「外国人留学生」
といった場合、そこで正式に入学して課程を修了して学位取得を目指す留学というよりも、
いわゆる現地の語学を習得することを目的とする留学生が現地の政府側においても長らく
想定されてきましたし、実際、アジア圏に留学する外国人留学生は、ほとんど語学習得を目的
として留学するパターンが主体でした。(とくに日本人の場合はよけいにそうでした。)

しかしながら、近年の傾向として、アジア圏でも、かつてのように語学留学だけでなく、現地の
大学や大学院に入学する日本人が増えるようになってきています。たとえば、かつて私が留学
したことのある台湾でも、私が留学した1990年代後半当時は、現地の大学や大学院に進学する
日本人はごく少数でしたが(さらに、この当時はまだ、台湾の大学・大学院に留学したいと
思っても、まず最初は政府教育部指定の外国人向けの中国語コースに入学することを半ば
義務付けられておりました)、最近は、かなりの割合で台湾の大学や大学院に進学する
日本人が増えています。

それにはいくつかの要因が考えられます。とりあえずざっと思いつくのは、たとえば、①台湾に
関心を持つ日本人が増えてきた、②現地に日本製品が溢れ、日本と変わらない生活ができる
ようになってきた、という要因以外にも、③台湾の政府が外国人留学生受け入れに積極的になり、
外国人留学生受け入れのための政策が整備されるようになってきた、④ビザ取得のための
条件が引き上げられるようになってきたが、その際に現地の大学や大学院を出ていれば有利
になる、ことなどが考えられます。

このように、台湾の大学や大学院に進学して学位取得を目指す日本人が増えていること自体は、以前では考えられなかった展開でもあり、留学による現地での滞在や生活を通じて、台湾社会を
良くも悪くも正しく理解する日本人が増えることに繋がっていると考えられる点で、私個人としては
おおむね好意的に捉えています。

しかし、現地の大学や大学院に入る日本人が増えたからといって、必ずしも望ましい展開ばかり
とは限りません。実際にふたを開けてみると、台湾の大学や大学院って、外国人留学生とくに
日本人はかなり簡単に入れますし(今はどうかわかりませんが、以前は、台湾で最高学府と
される台湾大学でも、日本人は簡単な中国語の試験と書類選考だけで入れました。専攻に
よっては、中国語の力すらろくに問われない場合も多々あります)、それだけでなく、何と台湾の
大学院ありながら、日本語で学位論文を書いて修了できる大学院もけっこうあるのです。

実際、自分のまわりだけでも、台湾で2~3年中国語留学をした後に(人によってはそれ以上)、
台湾の大学院に進学した人、たとえば、台湾の国立T大学、私立TG大学、同じく私立TK大学
などで、修士の学位論文を日本語で書いて修了した人が複数おります。
(台湾に中国語を学ぶために何年も留学しておきながら、日本語でしか学位論文を書けない
なんて、かえって情けないことだと思いますが。。。英語だったら、一応、グローバル言語なので
まだ分かりますけどね。日本語で学位論文を書いて修了できる国なんて、おそらく台湾だけだと
思います。ちなみに、もし私が採用担当者なら、何年も留学しているにもかかわらず日本語で
しか学位論文を書けないなんて、そんな人は絶対に採用しません。)

しかも2000年代以降の台湾では、日本で博士を出たけれど国内に適当なポストを見つけられ
なかった日本人が大量に台湾の大学に就職する時代になっていますから、現地に留学した
といっても、実際、留学先の担当教員やあれこれ世話を焼いてくれる受け入れ教員が
日本人(もしくは日本で学位を取った日本語ペラペラな台湾人教員)というケースが普通で、
実際、それはかなり多いです。したがって、台湾に留学したといっても、指導教員は台湾の
大学に奉職している日本人の先生で、学位論文審査のメンバーはみな日本語ができる先生
というケースも多いのが現状なのです。

おそらくこうした事情をよく知らない人たちは、台湾に留学して台湾の大学や大学院を終わった
というと、「じゃあ、中国語ができるのね」と思うのでしょうが、概ね90年代半ば以前に台湾の
大学や大学院を修了したのであればともかく、最近は、このように日本語で学位論文を書いて
修了できる大学院も結構出てきていますから、台湾に留学したからといって中国語ができる
とは必ずしも限らないのです。

以上のような事情もあって、私は台湾に留学している日本人の質は、総体的にみてあまり高い
とは思いません。まあ、これは別に台湾だけに限らないのかもしれませんが、台湾の場合は
とくに日本人は何かと優遇されていて周囲が助けてくれますし、これまでに述べてきたように、
台湾人学生にとっては難関とされる大学でも、日本人はそれに比べてかなり簡単に入れること、
それと入ってからも日本語で学位論文を書いて修了できる大学院も少なくないことから、
さまざまな意味で、日本人が留学する上で最もハードルが低い国なのではないかと思います。
(ちなみに、90年代後半に台湾に留学していた時、クラスメートの韓国人が「日本人はうらやま
しい。だって、日本語教師のバイトがいくらでもあるけど、韓国語を教えるバイトができるところ
なんて、それに比べたらほとんどないからね。あなたがた日本人は優遇されている。」といって
いたのを思い出します。)まあ、こんな要因も、台湾で大学や大学院に入る日本人が増加して
いる一つの背景になっているのかもしれません。

英語圏では、さすがに台湾のように日本語で学位論文を書いて修了できるというような事例は
まずないとは思われますが、たとえば、私が知っている人で、オーストラリアの有名国立大学で
Ph.D.を取得したある女性の場合、先方での指導教員は日本人と結婚していて日本語がほぼ
ネイティブの先生であり、またPh.D.論文を書くにあたって、翻訳・校閲を担当してくれる人が
付いていてくれたのだそうです。彼女自身も、「だからオーストラリアで学位を取得できた」と
言っておりました。

しかも、海外の大学・大学院に留学する日本人に関してもうひとつ疑問に思うのは、この女性に
限らず、先ほどの台湾の例も含め、学位論文のテーマは、ほとんどの場合、なぜか「日本」に
かかわるテーマなのです。こういうことを指摘すると、「海外から日本をみる」ということに意味が
あるのだとおっしゃる人が少なくないのですが、「日本」のことを研究するのであれば、別に
とりたてて海外である必要はないように思うのは私だけではないでしょう。

このような事例をよく聞くと、今はグローバル化の時代で、しかも各国や各大学では留学生の
受け入れに積極的になっているので留学がしやすくなったことは事実ですが、昔のように留学
制度がまだあまり整っておらず(大学等を通じた交換留学を含め)、しかもインターネットも
発達していなかった時代の方が、たしかに海外とりわけアジアに留学する日本人にはちょっと
「変わった」人が多かったのだろうけれど、留学することのハードルや、またそれによって
得られるものは今よりはずっと多かったように思います。

なぜなら、少なくとも一昔前くらいまでは、留学に行く前も自分で手紙や電話を通じて現地と
交渉しなければならなかったため、とくにアジア圏においては留学に行く前段階すら容易に
事が進まないなんて普通によくあることだったし、また、現地に行ってからも、とにかく日本語を
あまり使わずに生活せざるをえなかったし、もちろん、現地の語学をマスターしなければ現地の
大学や大学院に入って学位を取得するなどということは普通考えられなかったからです。
そのようなわけで、同じ1年、2年の留学でも、その中身はけっこう濃かったものでしたが、
今の1年程度の留学なんていうものは、おそらく実質は一昔前の半年分にも相当しないと
思います。

(同じようなことは、日本人以外の外国人にも同様に言えることかもしれません。たとえば、
私の知人で2000年前後に日本の博士課程在籍中にアメリカに留学したことのある香港人の
先生は、その約10年後に今度はサバティカルでアメリカに行きましたが、以前に比べて現地に
中国人が増えているせいか、現地ではほとんど中国人や中華系の人とばかり過ごしていて、
英語も最低必要限程度にしか使わなかったし、インターネットも発達している時代なので、
過ごした年数自体は前回と同じでも、前回の方がアメリカで過ごした時間がずっと長かった
ように感じられたと語っておりました。)

このように、留学事情の変化を追ってみると、留学することのハードルが低くなり、また留学した
からといって何か特別に「すごい」とか、とりたてて「現地の言葉ができる」というような時代でも
なくなった今、アメリカに留学する日本人が減ったからといって、何もそんなに騒ぎ立てるほど
憂うことではないように思います。私たち、とくに日本人は、留学を何か特別にすごいこととか、
留学したから語学ができるというような認識からそろそろ転換というか脱却を図らなければ
ならない時期に来ているのであり、そうしたなかで、留学することの意味やメリットとは何なのか、
あらためて問われる時代になってきているのです。

2011/06/26

大学全入時代において日本の大学は「出口」を厳しくせよ

早いものでもうすぐ7月。今年も半分が過ぎようとしております。
7月になれば、大学は夏休みを迎えると同時に、来年度の大学受験生(高校3年生)を
対象としたオープンキャンパスの時期を迎えますが、早いところでは、もう来年度の
入試に向けて本格的に動き出すところも出始めてきます。

日本では、少子化に伴う大学受験人口の減少が見込まれるにもかかわらず、
90年代以降、大学の新設または学部学科や定員の増設が相次いだことのツケもあり、
今や私立大学はいうまでもなく、国立大学でも、定員を確保するために、さまざまな種類の
入試を行って学生の確保に力を注がざるを得ない時代になっております。
(東大でさえ、今やオープンキャンパスなるものを実施する時代ですからね。)

さまざまな試験制度により、多様な学生を確保すること自体は別に悪くはないのですが、
今の日本の大学では、実質的に無試験に近い推薦入試・AO入試による入学者が
年を追うごとに増え、とくに私立大学においては、その全国平均値がすでに50%を超える
ようになっております。かつて高偏差値で有名だった早稲田大学政治経済学部でも、
定員の約半分が指定校・推薦・AOなど、いわゆる無試験による入学者とされています。
ちなみにウチの大学は、現在のところ、推薦比率は姉妹校推薦も含め4割以下に抑えて
あるのですが、それでも、推薦入学者の学力にバラツキがあることは、ときどき教員の
間でも話題になりますし、実際、昨年の教授会はそれで議論が長引く場面もありました。

最近、企業の人事担当者などの間でホットな話題となっていて、しかも頭を悩ませている
大きな問題のひとつは、一流有名難関大学の学生だからといって、そのレベルが信頼
できなくなってきており、採用活動に莫大な負担と労力がかかるようになっていること、
なんだそうです。

日本の大学は、概ねバブル期までは「受験戦争」といわれたように、大学入試が熾烈でした。
「入るのは難しく、出るのは易しい」といわれていたように、厳しい入試を経た後の反動も
あってか大学は「レジャーランド」とまで形容され、そうした観点からさまざまな批判も
ありました。けれども、少なくとも、大学入学時点でのフィルターがそれなりに機能できて
いたので、社会や企業は、その時点での基礎学力(つまり入試偏差値)を主なよりどころと
して当該学生を評価してきましたし、またそれができてきました。

しかし、今や、推薦入試やAO入試によって入学する学生が一流有名難関大学でも
増えていることもあり、そうした大学の学生でも、中学生レベルの英単語や構文が
分かっていない、漢字が書けない、文章が書けない、簡単な計算ができないといった
ケースが珍しくなくなっているという声をあちこちで耳にします。つまり、入試偏差値が
あてにならなくなってきていることから、これまでのように、高偏差値の大学の学生
だからといって優秀な学生というように判断することが難しくなっており、そのため、
かえって出身高校の学力レベルを判断材料とせざるを得ないケースや、エントリー
時点で入学種別を問うようなケースも増えてきているのだそうです。
(つまり採用人事担当者側も、予備校を通じて世間に出ている大学の偏差値を信用
しなくなってきたということですね。ちなみに、企業の採用人事担当者は、多くの大学で
「偏差値操作」を行うようになってきたということもさすがによく知っております。)

たとえばアメリカなどでは、よく「入るのは易しく、出るのは難しい」といわれてきました。
日本は少なくてもバブル期まではこの逆のケースだったわけですが、しかし、今や
日本の大学は、「入るのも出るのも易しい」という状態になってしまっているわけですから、
企業の大学つまり高等教育に対する信頼性が低下しているのも無理もないのかも
しれません。たとえ推薦やAO入試で入学する人が増えても、その分、アメリカの
大学生並に勉強しなければ授業に付いてこれないような、出口が厳格なような
システムにすれば、まだ展開は異なると思うのですが、今や、入口が易しくなった
にもかかわらず、出口も従来通り易しいままであれば、高等教育に対する信頼が
なくなるのも当然といえば当然でしょう。

大学生の就職難といったとき、メディアでは、不況など経済的な側面ばかりが強調
されてこの問題が取り上げられやすいのですが、大学進学率が高校卒業生の50%を
超えている今、バブル期までであれば、大学にとても行けるようなレベルになかった
生徒まで大量に大学に行くような時代になっている。このことが、大学生の就職難を
生み出している主な背景の一つにあるというような側面にも、もう少し着目されて
議論されていく必要があるように思います。

一方、大学側も、定員確保のためとはいえ、基礎学力に欠く学生を入学させたなら、
少なくとも社会に出すのに恥ずかしくないレベルにまで学生を鍛え上げ、学力を担保
させた上で社会に出すようにする責任があります。いまどきの日本の大学は、総じて
学生に甘いですが(どうも、学生に「優しい」のと「甘い」のをはき違えている教員も
少なくないのがまた問題なのですが)、日本も大学のユニバーサル化時代を迎えた今、
かつてのように入口を難しくするのができないのなら、せめてアメリカのように、
今度は出るのを難しくすることを本気で考えなければならない時期に来ているように
思われます。そうでなければ、定員自体は確保できたとしても、「大学」として本来の
機能を維持させることが難しくなり、そうしたところから日本の大学は崩壊していって
しまうように思います。

2011/06/19

日本の女性は「相対的貧困」に陥るリスクが高い

最近、私の担当している学部2年生が多い授業で、「相対的貧困」について取り上げました。

ご存知の方も多いとは思いますが、「貧困」の定義には大きく二種類あります。

まず、ひとつは「絶対的貧困」。
これは、たとえば飢餓や餓死寸前にあるアフリカやアジアの途上国の人々の様子を想定
すればお分かりいただけるように、生命の危機に瀕している状態の貧困のことを指します。
一般的に「貧困」といった場合、とりわけ日本では、多くの人々の頭の中に浮かんでくる
「貧困」のイメージはこの「絶対的貧困」です。

これに対して、もうひとつは「相対的貧困」。
「相対的貧困」とは、一般的に、その国の国民であれば、普通この程度の生活レベルは
享受できるだろうと多くの人々に認識されているレベルの生活水準を享受できない人々、
つまり、所得水準でいえば、その国の平均所得の半分以下の所得水準にある人々の
ことを指します。現在の日本国民の年間平均所得が445万程度といわれておりますので、
日本では、だいたい年収200万程度以下の所得しかない人々がこの「相対的貧困」に
該当します。

今日の日本では、いまさら強調するまでもなく、格差、格差といたるところで話題に上り、
そして問題視されております。もちろん最近は、失業や収入低下により健康保険を支払う
ことができなくて保険証を取り上げられ、病院にかかることができなくて、症状を悪化させて
亡くなったりするケースなども増えておりますので、こういうケースは「絶対的貧困」に該当
してくるのでしょうが、今日の日本で「格差」あるいは「格差社会」といった場合に問題に
されている格差とは、主にこの「相対的貧困」のことを指しています。

そこで私は、最近、自分の担当している授業で、学生に「あなたは自分のことを『貧困』だと
思うか?」と尋ねてみました。そうしたところ、何とほとんどの学生の反応はNo。。。

ちょっとこれには驚いたので、「相対的貧困」の概念を繰り返し説明し、今はとくに非正規
雇用が増えていて、①とくに女性の場合、日本では「働く女性」の2人に1人(つまり50%
以上)は非正規雇用であること、②たとえ正規雇用であっても、昔のようにそれで安泰という
時代ではなく、正規雇用から外れてしまうリスクが非常に高くなっていること(しかも日本の
場合、一度非正規雇用になってしまえば、正規雇用に戻ることは非常に困難)、③単身
高齢者の「相対的貧困」層が年々増加し、しかも日本では高齢者の性比では女性の方が
高いため、女性ほどそのリスクが高いこと、などを繰り返し説明しました。
でも、どうもみんなあまりピンと来ない様子。

無理もありませんよね。だって、バイトくらいはしていても、まだ就職して社会人になる前の
学生たちだし、ましてや子育てを行っているわけではないですから。それに、ウチの学生は、
地方の保守的な親のもとで大切に育てられた(お嬢様というよりは)箱入り娘が多いので、
感覚的にどうもいまいち、あまりこういう問題を自分に身近な問題として認識しきれない
のかもしれません。

まあ、今はそれでも致し方ないのかもしれませんが、でも、この「相対的貧困」の問題は、
3年生になって就職活動をする頃になると、すごく切実な問題として感じられてきますよと
私は強調したいです。

なぜかって、女子一般職の就職はどんどん厳しくなってきていますからね。ウチの大学は、
伝統があり、地域ではそれなりに名門とされる大学なので、これまで、地元老舗企業や
大手企業の支店の一般職などに多くの「指定席」を持っていたのですが、ここ数年の学部
4年生の就職状況をみても、それが急激に少なくなってきています。

それだけに限らず、とくに女性が多い秘書職や事務職などは、今は多くが非正規雇用に
切り替わっていますし、仮に正規雇用であっても、これらの職種は生涯にわたって経済的に
自立していけるほどの待遇ではないケースがほとんどです。「家族」だっていつまでも
健在ではないのですから、親にパラサイトできなくなったときどうするのかなと。
そのときは結婚すればいいやと思う女子学生も少なくないのでしょうが、今はその相手すら、
昔ほど年功序列・終身雇用でがっちりと守られているわけではないのですから、
いざとなったとき、自分で経済的に自立していけるだけの職についていなければ、
すぐに「相対的貧困」層に転落してしまうのですよ。(家族社会学者で、パラサイト
シングルという言葉の生みの親である中央大学の山田昌弘先生などが「女性にとって、
今や専業主婦という選択ほどリスクの高いものはない」とあちこちで声高にいって
いるのは、まさにこのことと同じ趣旨なのです。)

それに今、日本の企業は、事業のグローバル展開や日本の大学生の質の低下もあって、
本来、新卒に割り当てられていた採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせています。
一般的にいって、日本で大学を卒業するような外国人留学生の多くは、母国語のほかに
日本語、英語ができるだけでなく、たくましくてアグレッシヴですから、こんな地方の
女子大で周りがお膳立てしてくれるような環境でのほほんと温室で育った学生たちが、
こうした外国人留学生たちと同じ土俵に立ったらどうなるだろうかということは、もはや
説明するまでもなく目に見えていることでしょう。

つまり、今の女子学生の多くは、「相対的貧困」に陥るリスクが非常に高いのです。
それなのに、今の女子学生はあまりにも本人にその自覚というか危機感がなさすぎると
感じるのは私だけでしょうか?

そういうわけで、ウチの学生だけに限らず、今の日本の女子学生には、「貧困」という問題を
けっして自分たちと対極にある問題なのではなく、自分たちの身にいつ降りかかってくるか
わからない切実な問題として、この問題に向き合っていってほしいと思っています。

2011/06/07

大学のレベルと大学教員のレベルは必ずしもイコールにあらず

研究者や大学教員をやっていると、全国のいろいろな大学の先生と出くわす機会があります。
その中には、旧帝大や全国的に知名度の高い大学の先生から、受験生の獲得や生き残りを
かけて苦しい立場に立たされている大学の先生まで、実にさまざまな立場や環境に置かれ、
そしてさまざまな個性や特徴を持った先生と出会います。

そこで感じることは、いまさら言うまでもなく、大学教員や研究者の業界では元から「常識」と
されていることなのですが、20~30年前までならともかく、今は東大や京大などの先生だからと
いって、いわゆる「優秀な」先生とは限らないこと。しかし、この現実を案外世間一般の方々は
認識していません。頭では分かっていても、やはり「東大の先生だから偉いよね~」というような
反応が無意識のうちに出てしまう方が大半なのではないでしょうか。

もちろん、東大や京大は典型的な研究型大学で、しかも大規模な大学で教員の人数も多い
ですから、それに比例するかのように学界や研究者の業界で名を馳せている先生もそれなりに
多くなるのでしょう。しかし、他方では、教育者としてはおろか、研究者としてもロクな研究業績が
なく、学内政治だけでのし上がってきたような先生、おそらく世間から見れば、よくこんなんで
東大や京大の先生になれたなと思わせるような先生もごく普通に山ほどいるのが現実です。
(これは決して誇張ではなく、また悪意があって言っているわけでもありません。そんな先生は
ほんとうに珍しくないのです。)

私はここに名をあげた某旧帝大の大学院を出ていて、またもう一方の大学の方でもポスドクの
経験があるのですが、たしかにその頃の経験を振り返っても、ロクに学生の研究指導をしない
どころか(つまりは指導放棄ですね)、それができない、または自分の指導している、あるいは
自分の専門分野に近い学生の研究発表にすらトンチンカンなコメントしかできず、かえって
学生を困惑させてしまうような先生たちの姿を当たり前のようにたくさん見てきました。
学会や研究会の場に行ってもそうです。

一方、知る人ぞ知る大学、全国的にはあまり知られていない地方の大学ではあるけれども、
なかなか新進気鋭の優秀な研究者で、人格的にも学生の研究指導や教育にも優れたものを
持っている先生はたくさんおります。
(とくに最近は、むしろこういう大学の方が案外優秀な研究者が「埋もれて」いたりもします。)

世間一般では、「大学(学部)のレベルが高い大学ほどいい先生がいる」と思われているの
かもしれません。だからこそ、首都圏の有名大学の先生がテレビ番組のコメンテーターなどに
よく声を掛けられて登場しやすいのでしょうし、また新聞社の取材に対するコメントや一般書の
執筆を頼まれたりもしやすいがために、一見活躍して業績をあげているようにみえるのですが、
しかし、実際そうした先生がそこで言っている意見やコメントなどを聞いていると、往々にして
案外「素人」よりも的外れなものであったりすることも多々あります。(問題は、それが「有名
大学の先生が言っていることだから」と安易にオーソライズされてしまい、そういう必ずしも
正しくない認識が最も支配的な見解として世間に流布してしまうことなのです。)

早稲田などでは、昔からよく「学生一流、施設二流、教員三流」などといわれてきたように
(「学生一流」は今となっては怪しいですが)、大学のいわゆる学部の入試難易度やレベルと、
大学教員のそれとは決してイコールではありません。たしかに、学部の入試難易度の高い
大学であれば、教員の方はそれだけ教育の手間や負担が少なくて済み、その分、自分の
研究や「仕事」に時間を注ぐことができますし、一般的に社会的な注目度も高くなりますので、
大学教員の多くはそういう大学でポストを得たいと考えるのでしょうが。。。

けれど、自分が大学教員になった今、「一流有名難関大学の先生=優秀」という認識は、
ますます覆されつつある今日この頃なのです。