2011/06/19

日本の女性は「相対的貧困」に陥るリスクが高い

最近、私の担当している学部2年生が多い授業で、「相対的貧困」について取り上げました。

ご存知の方も多いとは思いますが、「貧困」の定義には大きく二種類あります。

まず、ひとつは「絶対的貧困」。
これは、たとえば飢餓や餓死寸前にあるアフリカやアジアの途上国の人々の様子を想定
すればお分かりいただけるように、生命の危機に瀕している状態の貧困のことを指します。
一般的に「貧困」といった場合、とりわけ日本では、多くの人々の頭の中に浮かんでくる
「貧困」のイメージはこの「絶対的貧困」です。

これに対して、もうひとつは「相対的貧困」。
「相対的貧困」とは、一般的に、その国の国民であれば、普通この程度の生活レベルは
享受できるだろうと多くの人々に認識されているレベルの生活水準を享受できない人々、
つまり、所得水準でいえば、その国の平均所得の半分以下の所得水準にある人々の
ことを指します。現在の日本国民の年間平均所得が445万程度といわれておりますので、
日本では、だいたい年収200万程度以下の所得しかない人々がこの「相対的貧困」に
該当します。

今日の日本では、いまさら強調するまでもなく、格差、格差といたるところで話題に上り、
そして問題視されております。もちろん最近は、失業や収入低下により健康保険を支払う
ことができなくて保険証を取り上げられ、病院にかかることができなくて、症状を悪化させて
亡くなったりするケースなども増えておりますので、こういうケースは「絶対的貧困」に該当
してくるのでしょうが、今日の日本で「格差」あるいは「格差社会」といった場合に問題に
されている格差とは、主にこの「相対的貧困」のことを指しています。

そこで私は、最近、自分の担当している授業で、学生に「あなたは自分のことを『貧困』だと
思うか?」と尋ねてみました。そうしたところ、何とほとんどの学生の反応はNo。。。

ちょっとこれには驚いたので、「相対的貧困」の概念を繰り返し説明し、今はとくに非正規
雇用が増えていて、①とくに女性の場合、日本では「働く女性」の2人に1人(つまり50%
以上)は非正規雇用であること、②たとえ正規雇用であっても、昔のようにそれで安泰という
時代ではなく、正規雇用から外れてしまうリスクが非常に高くなっていること(しかも日本の
場合、一度非正規雇用になってしまえば、正規雇用に戻ることは非常に困難)、③単身
高齢者の「相対的貧困」層が年々増加し、しかも日本では高齢者の性比では女性の方が
高いため、女性ほどそのリスクが高いこと、などを繰り返し説明しました。
でも、どうもみんなあまりピンと来ない様子。

無理もありませんよね。だって、バイトくらいはしていても、まだ就職して社会人になる前の
学生たちだし、ましてや子育てを行っているわけではないですから。それに、ウチの学生は、
地方の保守的な親のもとで大切に育てられた(お嬢様というよりは)箱入り娘が多いので、
感覚的にどうもいまいち、あまりこういう問題を自分に身近な問題として認識しきれない
のかもしれません。

まあ、今はそれでも致し方ないのかもしれませんが、でも、この「相対的貧困」の問題は、
3年生になって就職活動をする頃になると、すごく切実な問題として感じられてきますよと
私は強調したいです。

なぜかって、女子一般職の就職はどんどん厳しくなってきていますからね。ウチの大学は、
伝統があり、地域ではそれなりに名門とされる大学なので、これまで、地元老舗企業や
大手企業の支店の一般職などに多くの「指定席」を持っていたのですが、ここ数年の学部
4年生の就職状況をみても、それが急激に少なくなってきています。

それだけに限らず、とくに女性が多い秘書職や事務職などは、今は多くが非正規雇用に
切り替わっていますし、仮に正規雇用であっても、これらの職種は生涯にわたって経済的に
自立していけるほどの待遇ではないケースがほとんどです。「家族」だっていつまでも
健在ではないのですから、親にパラサイトできなくなったときどうするのかなと。
そのときは結婚すればいいやと思う女子学生も少なくないのでしょうが、今はその相手すら、
昔ほど年功序列・終身雇用でがっちりと守られているわけではないのですから、
いざとなったとき、自分で経済的に自立していけるだけの職についていなければ、
すぐに「相対的貧困」層に転落してしまうのですよ。(家族社会学者で、パラサイト
シングルという言葉の生みの親である中央大学の山田昌弘先生などが「女性にとって、
今や専業主婦という選択ほどリスクの高いものはない」とあちこちで声高にいって
いるのは、まさにこのことと同じ趣旨なのです。)

それに今、日本の企業は、事業のグローバル展開や日本の大学生の質の低下もあって、
本来、新卒に割り当てられていた採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせています。
一般的にいって、日本で大学を卒業するような外国人留学生の多くは、母国語のほかに
日本語、英語ができるだけでなく、たくましくてアグレッシヴですから、こんな地方の
女子大で周りがお膳立てしてくれるような環境でのほほんと温室で育った学生たちが、
こうした外国人留学生たちと同じ土俵に立ったらどうなるだろうかということは、もはや
説明するまでもなく目に見えていることでしょう。

つまり、今の女子学生の多くは、「相対的貧困」に陥るリスクが非常に高いのです。
それなのに、今の女子学生はあまりにも本人にその自覚というか危機感がなさすぎると
感じるのは私だけでしょうか?

そういうわけで、ウチの学生だけに限らず、今の日本の女子学生には、「貧困」という問題を
けっして自分たちと対極にある問題なのではなく、自分たちの身にいつ降りかかってくるか
わからない切実な問題として、この問題に向き合っていってほしいと思っています。

2011/06/07

大学のレベルと大学教員のレベルは必ずしもイコールにあらず

研究者や大学教員をやっていると、全国のいろいろな大学の先生と出くわす機会があります。
その中には、旧帝大や全国的に知名度の高い大学の先生から、受験生の獲得や生き残りを
かけて苦しい立場に立たされている大学の先生まで、実にさまざまな立場や環境に置かれ、
そしてさまざまな個性や特徴を持った先生と出会います。

そこで感じることは、いまさら言うまでもなく、大学教員や研究者の業界では元から「常識」と
されていることなのですが、20~30年前までならともかく、今は東大や京大などの先生だからと
いって、いわゆる「優秀な」先生とは限らないこと。しかし、この現実を案外世間一般の方々は
認識していません。頭では分かっていても、やはり「東大の先生だから偉いよね~」というような
反応が無意識のうちに出てしまう方が大半なのではないでしょうか。

もちろん、東大や京大は典型的な研究型大学で、しかも大規模な大学で教員の人数も多い
ですから、それに比例するかのように学界や研究者の業界で名を馳せている先生もそれなりに
多くなるのでしょう。しかし、他方では、教育者としてはおろか、研究者としてもロクな研究業績が
なく、学内政治だけでのし上がってきたような先生、おそらく世間から見れば、よくこんなんで
東大や京大の先生になれたなと思わせるような先生もごく普通に山ほどいるのが現実です。
(これは決して誇張ではなく、また悪意があって言っているわけでもありません。そんな先生は
ほんとうに珍しくないのです。)

私はここに名をあげた某旧帝大の大学院を出ていて、またもう一方の大学の方でもポスドクの
経験があるのですが、たしかにその頃の経験を振り返っても、ロクに学生の研究指導をしない
どころか(つまりは指導放棄ですね)、それができない、または自分の指導している、あるいは
自分の専門分野に近い学生の研究発表にすらトンチンカンなコメントしかできず、かえって
学生を困惑させてしまうような先生たちの姿を当たり前のようにたくさん見てきました。
学会や研究会の場に行ってもそうです。

一方、知る人ぞ知る大学、全国的にはあまり知られていない地方の大学ではあるけれども、
なかなか新進気鋭の優秀な研究者で、人格的にも学生の研究指導や教育にも優れたものを
持っている先生はたくさんおります。
(とくに最近は、むしろこういう大学の方が案外優秀な研究者が「埋もれて」いたりもします。)

世間一般では、「大学(学部)のレベルが高い大学ほどいい先生がいる」と思われているの
かもしれません。だからこそ、首都圏の有名大学の先生がテレビ番組のコメンテーターなどに
よく声を掛けられて登場しやすいのでしょうし、また新聞社の取材に対するコメントや一般書の
執筆を頼まれたりもしやすいがために、一見活躍して業績をあげているようにみえるのですが、
しかし、実際そうした先生がそこで言っている意見やコメントなどを聞いていると、往々にして
案外「素人」よりも的外れなものであったりすることも多々あります。(問題は、それが「有名
大学の先生が言っていることだから」と安易にオーソライズされてしまい、そういう必ずしも
正しくない認識が最も支配的な見解として世間に流布してしまうことなのです。)

早稲田などでは、昔からよく「学生一流、施設二流、教員三流」などといわれてきたように
(「学生一流」は今となっては怪しいですが)、大学のいわゆる学部の入試難易度やレベルと、
大学教員のそれとは決してイコールではありません。たしかに、学部の入試難易度の高い
大学であれば、教員の方はそれだけ教育の手間や負担が少なくて済み、その分、自分の
研究や「仕事」に時間を注ぐことができますし、一般的に社会的な注目度も高くなりますので、
大学教員の多くはそういう大学でポストを得たいと考えるのでしょうが。。。

けれど、自分が大学教員になった今、「一流有名難関大学の先生=優秀」という認識は、
ますます覆されつつある今日この頃なのです。

2011/05/16

国の研究者支援制度の申請資格を年齢で制限することは妥当か?

この1週間、科研費の投稿へのアクセスがたいへん集中しております。
それだけ科研費に対する研究者の関心が高いことの現れであるのでしょう。
たしかに、ちょうど平成23年度の科研費の審査結果がすべて出そろった時期ですからね。

前回のブログでは、科研費も、アメリカなどのように審査経過や審査員名を具体的に公表
すべきことや、国民に対する説明責任として、審査に対する不服申し立ての制度を設ける
べきことを指摘しました。

ここでもうひとつ、科研費や国の研究者支援に対する制度のあり方で見直した方がよいと
思われるのは、年齢によって申請資格を制限することの是非についてです。

たとえば、科研費においては、「若手研究」という種目は39歳以下と規定されておりますが、
年齢で申請資格を制限するのはいかがなものでしょうか。

研究者のなかには、社会人やさまざまなキャリアを経たのちにアカデミズムの業界に入る
人だって少なくないはずです。したがって、研究種目への申請資格を年齢で区切るのではなく、
たとえば「ポストについてから○年以内の者」というように、アカデミズムの業界に身を置く
ようになってからの年数で制限する方が、実情を正しく反映できるような気がします。
「若手」の判断基準は、必ずしも年齢によるものばかりとは限りません。

同じような論理から、学振の特別研究員への申請資格も同様にすべきでしょう。
そうすれば、たとえば学振のRPD制度などはわざわざ設けなくてもいいはずです。
(RPDへの申請資格は、子育て中の者、もしくは子育てにより過去数年以内に
研究を中断したことがある者とのことですが、これは極端にいえば国民に対する
プロパガンダにすぎず、逆差別的な制度であるように思われます。この制度が
設けられた背景としての国の説明は、少子高齢化社会や男女共同参画への
配慮ということらしいのですが、そういうことであれば、なぜ介護はその範疇に
はいらないのか理解に苦しみます。)

日本の政府や役人は、競争原理だとか、そういう面ではやたらとアメリカの真似をしようと
するにもかかわらず、どうして、こういうダイバーシティや柔軟なキャリアパス形成に関わる
部分においては諸外国の「進んだ」制度を積極的に導入しようとしないのか不思議です。

大学院への入学などにおいては、社会人などの受け入れを奨励しているにも関わらず、
こうしたところで年齢制限を設けるのはきわめて矛盾しているとしかいえません。
おそらくこうした国の姿勢も、「高齢ポスドク問題」をはじめ、日本の大学や研究者を
とりまく世界にある種の弊害をもたらしている元凶の一つであるように思います。

追記)平成26年度募集分より、学振特別研究員の申請資格として、年齢制限が
撤廃されたようです。リカレント学生や、さまざまな経歴を経て研究者を志した方には
大きな朗報です。(2013年4月7日、本ブログ管理人追記)
詳しくは、日本学術振興会特別研究員募集ホームページをご確認ください。
http://www.jsps.go.jp/j-pd/data/shinsei/henkoten_pd.pdf

2011/05/08

科研費審査のあり方の疑問と問題点

ついに連休も終わり、来週からはまた通常の日々に戻ります。
新学期開始時期は、実は大学教員にとって「科研費」の内定が来る時期でもあるのですが、
これに申し込んだ研究者の間では、科研費の審査結果をめぐって一喜一憂の光景が
繰り広げられている時期でもあります。

「科研費」とは、「科学研究費」の略称で、いわゆる国(政府)による研究費のこと。
ひとくちに「科研費」といっても、文部科学省の科研費、厚生労働省の科研費や科学技術関係の
科研費などさまざまありますが、最もメジャーなのが文部科学省の科研費。
これは、通常、文部科学省傘下の法人である日本学術振興会というところが取り扱います。

科研費は国の研究費ということもあり、日本の研究者の間では最もポピュラーなものと
いわれております。ですので、当該分野の権威や大家といわれる大物から、大学や
研究機関にポストを得たばかりの出だしの者まで、毎年秋になると、多くの研究者が総出で
プライドをかけて応募するものでもあります。審査も公には当該分野の専門家によって
公平に行われているとされておりますし、性質上、当然そうでなければならないでしょう。

しかし、科研費の審査が果たしてどれだけしっかりと、しかも公平に行われているのかを
めぐっては、常にさまざまな論争や疑惑が絶えません。

たしかに、自分の周囲をみてみても、申請に関連するテーマでの実績や業績も素晴らしく、
申請書もよく書けている人が不採択だったり、その逆の例もかなり多くあります。
着眼点がよく、今後重要になると思われるような研究が不採択だったり、逆に、明らかに
どうみても個人的な道楽としか思えないような研究が採択され、しかも多額の研究費が
付けられていたりなどというのは枚挙に暇がありません。

こういうケースや話をよく目の当たりにすれば、科研費とはいったい何を基準に審査
されているのか、なんだかんだいっても、申請書の内容そのものというよりは、
結局は政治力や申請者の研究者としての知名度によって、ほぼ採択・不採択が
決まるのではないかとの疑念の声が上がっても無理もないように思います。
(あるポスドクや若手教員レベルの研究者が出した研究計画が不採択になったにも
関わらず、まったく同じ研究計画を今度はボスの名前や有力者の名前で出したら
通ったなどというケースは、その最たるものです。)

こういうことは、何も科研費だけに限った話ではなく、民間財団の研究費の審査なんかでも
あることでしょう。ただ、民間財団の場合は、あくまで財団の理念や研究費の趣旨に
沿った研究計画であることが第一に求められ、審査も主にそうした観点から行われるので、
自分の経験からいっても、科研費に比べれば、まだはるかに客観的で透明性も高く分かり
やすいですし、対策も立てやすいといえます。

科研費の場合、不採択者の審査結果には、不採択者の中でどの程度の位置にあったのか
A、B、Cによるランクが付される程度であり、最近でこそ、審査コメントも付されるように
なったようですが、その審査コメントも非常にあっさりした、ほとんど審査員の主観に起因する
「上から目線」的なようなもので、どこがどのように悪かったのか、どこをどのように改善すれば
採択の可能性が上がるのか、などといった建設的なコメントがあるわけではないと聞きます。
これでは、どこが至らなくて採択されなかったのか、その原因が釈然としないために、
今後、どのような戦略を立てて応募したらいいのか分からず、結果的に申請者の
研究者としての発展に繋がらず、悪循環をもたらすと思われます。

科研費は出す分野や種目、審査員が誰なのかも重要なようで、一度不採択になった
申請書をほとんど修正せずに出したら、今度は通ったというような話もよく聞きます。
(なぜなら、審査員は2年くらいでほとんど入れ替わるため。)このことはつまり、
審査員の目次第、そして応募分野によって同じ申請内容でも評価が大きく異なると
いうことを指しているのでしょう。
(科研費に関しては、よく「通った」「採択された」というよりも、「当たった」というような
言い方がなされるのは、まさにこうした所以からなのでしょう。)

ちなみに、アメリカなどでは、国の研究費の審査においては、審査の経過や審査員名も
具体的に公表されます。また、審査結果に不服の場合は、それに申し立てができるような
制度もしっかりと確立され、しかもそれがよく機能しております。

国民の税金を使った研究費である以上、申請者だけでなく、審査する側の方にも
説明責任があるはずです。日本も、科研費に関してぜひこうした制度を設けてほしい
ものと思います。
(しかし、そうしたら、不服だらけで文科省や学術振興会は大変なことになると思うが。。。
でも、そうでもしないと、この国のほんとうの意味での学術の発展はないと思います。)

2011/03/31

多言語社会・香港の言語事情――香港と北京語

最近、出張で香港に行ってきた。

空港や街中を歩いていればわかるが、香港は、欧米系の人はもとより、インド、アフリカなど世界中のさまざまな人々の姿をよく目にする。さすがグローバル都市、香港。比べるわけではないが、私はよく台湾にも行くが、台湾ではやはり、空港や街中でもっともよく目につく外国人の姿は日本人が圧倒的で、そして次に韓国人やタイ人、ベトナム人、インドネシア人という感じか。やはりアジア系が多い。また、最近は中国大陸からの観光客もとても増えている(これは香港でも同様)。

香港は生活水準は日本と全くと言っていいほど変わらない。いや、むしろ、日本よりコスモポリタン性に富み、ある意味便利で機能的にできている(というか、できすぎている)。イギリス統治の影響もあり、中華文化圏でありながらも、法や言論の自由があり、法治社会であることも、香港でビジネスをする日本人にとって利点とされているようだ。また、中華文化、とくに南方の中華文化とイギリスの文化がミックスされているので、家族のネットワークやサポートが強い一方で、欧米的な合理性やレディ・ファーストの精神がそれなりに根付いているので、現代の女性が自覚的に動きやすい社会とされている。(ちなみに、街中には働く香港人女性を支える家事労働者としてやってくるフィリピン人女性の姿がかなり多く目立つ。)

ただ一方で、香港は所得や職業による貧富の差がとても大きい社会でもある。日本もそうであるが、香港はまさに、エリートのホワイトカラー層とブルーカラー層とでは、明らかに住んでいるところ、食べるもの、ライフスタイルなどが全く違う。香港には、かつてより成功した中国大陸人も多いが、逆に大陸から逃げるようにやってきて香港下層社会で暮らす者も多い。

また、金銭による評価や待遇がけっこうシビアというかあからさまで、お金を払えば払ったなりの待遇で接してくれるが、ケチケチすれば、それ相応の待遇でしかないのは、まさに日本以上に徹底している。ホテルや住宅の設備なんかには、まさにそれがよく現れている(ちょっとケチれば、窓のないホテルや住宅なんかもごく当たり前)。しかも競争社会なので、息をついているひまもない社会でもある。

まあ、このようにプラス面マイナス面それぞれあるが、在住日本人に話を聞くと、香港は日本人にとって生活しやすい海外の一つであるようだ。たしかに、私自身、香港で暮らすチャンスがあるのなら暮らしてみても悪くない地域だと思う。

ただ、私にとって、香港でネックとなるのが言語。

香港はご存知のとおり、1842年のアヘン戦争によるイギリスへの割譲以来、1997年の中華人民共和国への返還までイギリスの植民地であったため、英語と中国語(広東語)が公用語とされ、職場や日常生活では英語がよく通じる。実際、日本人も含め、外国人にとって香港が住みやすい地域の一つであるのには、このように英語が通じ、英語ができれば全く問題なく生活できるのも大きな理由の一つである。

香港は1997年の中華人民共和国返還以降、公式には「中華人民共和国香港特別行政区」となったため、それ以降、公用語に北京語も加えられるようになり、北京語は一応、公用語のひとつとはなっている。

しかし、香港に行けば分かるが、香港で外国人が北京語を話すのはあまりいい顔をされない。やや見下されたような態度をとられる。たしかに返還以降、北京語は大陸とのビジネスや大陸観光客が多い空港や免税店、観光地ではよく通じるようになったし、最近は、「兩文三語」をスローガンとして初中等教育の場で北京語教育が始まっているが(香港の大学でも、香港人の学生を対象に、夏休みなど長期の休みを利用して大陸で北京語研修も行われるようになっているらしい)、香港における北京語の存在は実際にはまだまだリップサービス的な感じの位置づけにとどまっているような感じなのである(ちなみに香港の地下鉄でのアナウンスの順序は、広東語→英語→北京語の順)。

というわけで、私も香港ではあえて北京語を使わずに、片言の英語で乗り切っている。外国人、それも日本人が北京語を使おうものなら、距離をとられる。私も以前、返還後の香港にはじめて行った際に、タクシーに乗るとき北京語を使ったらむかついたような態度をとられた経験がある。香港では、むしろ、片言でたどたどしくてもいいから、外国人は英語で話した方が何倍もpoliteな態度で接してくれる。

ただ、香港人同士の会話や日常生活では主に広東語が用いられるため、香港社会にどっぷりとつかるには、やはり広東語ができた方がいいに越したことはない。

たしかに香港在住日本人の中にも、香港映画が好きで香港に住みついたなどという人は、香港は広東語だから興味を持った、広東語の響きが好きという人もいる。しかし、広東語を別に低く見るわけではないが、本来、広東語とはあくまで中国語の一方言の位置付けで、話し言葉が主体の言語である。広東語は、華僑・華人の世界では広く使われているが、国家・地域として使われているのは東京都の約半分の面積に約700万の人口を抱える香港だけなのである。なまじ香港は英語が通じるがために、外国人がどうせ同じ中国語を勉強するのなら、使用人口も多く、国際的にもパワーを持った言語である標準中国語(北京語)をマスターした方がという発想になるのは無理もないだろう。

香港も、英語はともかくとして、中国語の上位言語が広東語ではなく北京語だったら、私にとって仕事や生活をする上で、申し分のないほど魅力的な場所になっていただろう(世界中で幅を利かせている二大言語である英語と中国語(北京語)が両方ばっちり通用する地域といったら、最強だと思えるが。。。)。なので、私は個人的には、長く暮らすのであれば、香港よりはやはり台湾の方がいい。それに、たしかに仕事のチャンスや給料自体は香港の方に軍配が上がるのかもしれないが、台湾の方が北京語が通じるし、人の気質もフレンドリーでおおらかで人情味がある(香港でも北角あたりの庶民的な雰囲気は私は好きだが。。。。余談だが、あの春秧街のローカルな市場の中をトラムがのろのろと突き抜けて行く風景は私の香港のお気に入りのスポットの一つ)。

これは歴史的経緯や政治的背景も関係していることなので、うかつなことは言えないが、香港では中国語の上位言語が北京語ではなく広東語というのは、いってみれば、たとえば台湾が、中国語の上位言語が北京語ではなく台湾語(閩南語)の方が幅を利かせているというのと、同じような感じなのである(いうまでもないが、現在の台湾はそうではない。たしかに南部の高雄などでは、台北のある北部よりも台湾語(閩南語)のシェアは高いが、香港における広東語ほどではない。香港が実質上の公用語を広東語にできたのは、もともと広東人が中心の社会で、その昔、移民の多くが広東人だったからこそ可能であったのであろう。逆に台湾の場合、標準中国語(北京語)が「国語」とされたのは、戦後の統治者が日本から中華民国に代わったという政治的な理由以外にも、もとより香港以上にエスニシティに多様な社会であったことも大きかったからなのではないかと思われる。)

このような歴史的経緯や大陸に対するイデオロギーや住民意識の問題はあるにしても、香港も、中国語の上位言語が広東語ではなく北京語だったら、今のグローバル化の時代、「両岸三地」として中華圏がもっと一体化し、その強みを発揮できるのではないだろうかと考えるのである。

2011/02/28

国内でも地域差がある日本とアジア間の人の流れ

今、勤務先の大学の仕事の関係で台湾に来ています。
今回は、現在私が住む都市に最寄りの空港から台湾に出発しました。
私が現在住んでいるところは、台湾人、いや台湾の人たちだけでなく、香港、韓国、そして最近は中国人観光客からも大人気の土地で、日本国内でもアジアの人々にとって最も人気のある憧れの地域となっているようです。

台湾に行くのにこの空港を利用したのは今回が初めてですが、そこで気が付いたのは、乗客のおそらく7割方は台湾人だったこと。

もちろんその大半は観光客だと思われますが、最近は台湾のフラッグキャリアであるエバー航空やチャイナエアラインも、東京や大阪に加えて日本の主要都市へのフリーパックを出しているようなので(だいたい2泊3日から3泊4日程度で、フライト、ホテル、往復の送迎が付いているタイプのもの)、観光客だけでなく、自分で何か商売を営んでいるような感じの人が、おそらくそれを利用してやってきて、当地の特産品を大量に買出しに来ているような感じの台湾人の姿もちらほらみかけました。

今年の年明けには、同空港から香港を往復したのですが、やはり香港線でも乗客の7割程度は香港人でした。そちらでも、家族旅行、リピーターの個人旅行者らしき人をたくさんみかけました。

ちなみに、私は数年前まで東京に住んでいたのですが、そちらから台湾や香港などに向かう路線では、逆に日本人の出張のビジネスマンらしき人、団体ツアー客などが多く目につき、台湾人や香港人の乗客はそれに比べればおそらく3割から4割程度と比較的少数派でした。

なるほど、私は今回の台湾行きはエバー航空を利用しましたが、客室乗務員は日本人が1人のみであと全員台湾人だったのですが、同じエバー航空に成田から乗った時は、台湾の航空会社にもかかわらず、台湾人客室乗務員は少数で日本人客室乗務員がほとんどだったというのはこうしたゆえんでもあったのですね。

こうしてみると、台湾、香港、韓国、中国など近隣のアジアと日本の間の人的移動は、全体に占める双方の乗客の比率を比較した場合、東京など首都圏からアジアに向かうのは日本人の方が比率的に多いのに対して、逆にこれらの地域から東京以外の地方主要都市への人の流れはアジアの人たちの方が多くなっており、同じ日本国内からの出発便でも、地域によってその乗客の国籍別比率に大きく違いがあることがうかがえます。

どうりで、フライトの時刻表を見れば、地方大都市の空港から台湾や香港に行くフライトは、午後もしくは夕方出発がほとんどで、逆に現地からのフライトは午前の朝早い時間になっているんですね。(ただ、逆に日本から出て行くこっちの身にしてみれば、逆にこのダイヤは不都合なのですが。。。)

現代のグローバル化時代における人の移動の特徴のひとつは、観光と移住の境界線があいまいになりつつあること。日本から海外に出て行く場合でも、「暮らすように旅する」とか「旅するように暮らす」といったような文言をよく雑誌などで見かけるようになりましたが、アジアから日本への観光においても、それがもはや一過性のものではなく、しかも彼ら彼女らの日本での観光消費行動が、地方都市においても、すでに単なる観光といった枠組みを超えるような側面さえ見受けられるようになっております。私が2010年9月に訪問した石垣島でもそうでした。

こうしてみると、日本の地方都市の産業や経済は、今後ますますこうしたアジアからの人の流れによって促されていくような気がします。

2011/02/10

評価の高いレポートと低いレポート

今、大学教員の多くは学生の答案やレポートの採点時期。

学生のレポートを採点していると、よく書かているレポートとそうでないレポートが必ずあるものですが、私が担当しているある講義授業では、授業で取り上げた内容とそれに基づいた理解に立った上で学生に自由にテーマを設定させ、それについて論じたものをレポートとして提出することを課しています。

そこで、一言でいうと、やはり評価の高いレポートは、多少ぎこちなくても、一生懸命自分の言葉で語ろうとしていることが伝わってくるレポート。そして、そこで語っていることがしっかり自分のものになっていて、事例が地に足が付いているもの。

逆に、評価の低いレポートは、剽窃ではないものの、ほとんどどこかから取って付けて書いたようなレポート。一見よくできているようでも、学生が普段使わないような言い回しや用語が散りばめられていれば一目瞭然。私は講義系で人数が多い授業では、授業数回に一回の割合でリアクション・ペーパーを導入しているので、そこに書かれてある記述と照らし合わせてみれば、それが果たして自分の言葉かそうでないかということはすぐ分かります。

ということで、私の授業のレポート採点は、まず、私が読んで感心したレポートは文句なく優評価。一般的に見てレベルが高く、論理的な展開がうまくできているものも優。それに対し、そつなくまとまってはいるけれど、あまり、知的なチャレンジになっていないものは残念ながら良評価。つまり、論述の根拠は示されているが、問題設定に書き手の個性があまり見られず、リアリティのない紋切り型の言い回しに寄りかかっている類のもの。そして、感想文レベルのもの、ほとんどコピペだろうと思われるもの、論拠が示されていないものは可の評価という感じになります。


大学というところは、高校までのように、たんに教科書に書かれてある記述をそのまま覚えるのではなく、いうまでもなく「考える力」「発信する力」を身につける場所。とくに私が専門としているような社会科学系の科目にはそれがいえます。

したがって、事実はひとつでも、一つの問題をさまざまな角度から見つめることができていることと、そこから推測できることを手掛かりに、自分なりの「論を立てる」というプロセスが重要。学生には、このような認識に立って、レポート作成に取り組んでほしいと思うものです。

2011/02/07

卒論面接口頭試問

私が勤める大学の私が所属する学科では、本日、卒論の面接口頭試問が終了しました。
今日は、自分が指導教員として主査になっている学生たちの口頭試問をはじめ、
副査になっているものも含めて、朝から夕方まで立て続けに面接口頭試問が行われました。

私は初めて学生の卒論面接口頭試問というものを担当しましたが、
これまでと異なって今度は自分が面接する側の立場に立ち、
学生たちの緊張した姿を目の当たりにして、思わず自分が学生だった頃を思い出しました。
なかには緊張して受け答えがしどろもどろになっている学生もいたけど、
けっこう皆しっかりと受け答えに応じていました。エライ!

ここで、私が主査を務めた学生の副査になってくださった、ある先生のお言葉。

「決して弱いところを突くのではなく、いいところを褒めてあげて、
こうすればもっと伸びるよというように、その学生を勇気付けてあげるような
観点からコメントをしてあげることが大事」

いいお言葉ですね。
研究者の世界に染まってしまうと、何かにつけて他人の研究や論文に対して
批判めいたことを言ったり、あら探しをしたりするという、ある種の「不健全な」姿勢が
自ずと身についてしまい、それが原因で思わぬ場面で関係がギスギスしてしまうものですが、
決して甘く評価するということではなく、人の長所を褒めてあげるということは、
他人だけでなく、のちのち自分自身にもプラスに跳ね返ってくるものだということを
あらためて認識した次第でした。

ウチの大学は、旧帝大のような決してアカデミックな権威をもった大学ではないけれど、
人を育てるという観点からみれば、なかなか優れたものを持っている大学かもしれない。
(本来なら、こういう大学こそが研究者を育てる機関として相応しいのかも。。。)

私の卒論指導学生たちは、全員就職も決まって一安心。
学生や先生方から勇気をもらった一日でした。

2011/02/05

大学院進学の心得―失敗しない指導教員の選び方

2月に入り、私の住む地域でも急にぐっと春めいてきました。私の勤める大学の私が所属する学科でも、卒論の面接口頭試問が始まり、初日であった昨日、さっそく5人の学生の副査を務めました。卒論とはいっても(失礼!)、みんななかなかしっかり書いていることに感心。。。

さて、この新規オープンしたブログをさっそくウチの大学の自分の周辺にいる学生にも宣伝したこともあり、1月31日付けのブログ「日本の文系大学院はリスク多し」を読んで、大学院進学に対して学生からさっそくいくつかの相談をいただきました。その相談の内容は、一言でいってしまえば、「指導教員を選ぶ際、できるだけリスクを少なくするにはどうすればよいのか」といった大学院での指導教員の選び方についてです。

たしかにこれはなかなか難しい。ある意味、大学院を選ぶより難しいことです。何せ自分自身、これで失敗した経験があるものですから。。。自分の出身大学・学部・学科に直属の大学院であれば、内部の事情や先生についてもだいたい分かりますが、外部の大学院を志望する場合、その先生の専門分野、書いている論文といった以外に情報がほぼないのがネックです。

そこで、外部の大学院に進学を考える場合、希望する先生の専門分野、どのような論文を書いているのかなどといったベーシックな情報を集めることはもちろんですが、それ以外にぜひ必ずやっておきたいことは、その先生に直接お会いして進学の相談に乗ってもらうことはもちろん、可能であれば希望する先生にお願いして、最低1年間は希望する先生のゼミに参加させてもらうことです。ゼミへの参加が無理であれば、通常の講義授業でもよいでしょう。(きちんとプロセスや礼儀を踏まえた上で丁寧にお願いすれば、良心的な先生であれば不親切な対応をすることはまずあり得ないので、この段階でそっけない対応をするような先生だったら、いくらその先生が研究者として優れていて有名な先生でも避けた方が無難です。)

なぜこれが重要かといえば、少なくとも1年間、その先生のゼミなり講義なりに参加していれば、その先生の考え方や方針、また性格やお人柄がだいたい分かるため、はたして自分に合う先生かどうか、安心して付いていって大丈夫な先生かどうかがかなり確実に見極められるからです。ホームページなどにはふつうはいいことしか書かれておりませんので、それに大きく頼って判断してしまうのは極めて危険です。

もし希望する先生が遠方の大学で、毎回の出席は無理な場合は、1年のうち何回かゼミや講義に出席させてもらう形でもよいでしょう。そして、そこでその先生の学生と仲良くなって情報を仕入れるようにする。さらに、今はメールが普及しているので、だいたい1年間くらいだけでも続けてその先生とやりとりをしてみること。ある程度の期間、定期的にその先生とメールのやりとりをしていれば、返事の内容や反応だけでも、先生のお人柄というものがけっこう確実に分かるものです。

何せ自分の研究者としての将来を託す先生。先生のリサーチは超重要。もちろん、普段の自分自身の努力が大切なことは言うまでもありませんが、付く先生の判断を誤れば致命的。大切な自分の将来にもかかわりかねないのですから。。。仮に1~2年進学が遅れたとしても、大学院に進学を本気で考えるのであれば、あとあとお金と時間を無駄にしないためにも、このプロセスは絶対に怠らないでほしいものです。

2011/02/02

就職が決まる学生と決まらない学生の差

大学生の就職内定率が過去最低を記録したというニュースが、連日のようにニュースで報じられています。

就職内定率過去最低 大学、支援に苦心 希望留年や学費減額
http://mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20110119ddn003100020000c.html

大学就職内定率68.8%、過去最低に学長らは
http://www.asahi.com/edu/news/TKY201101240088.html

この68.8%という数字は、全国平均なので、男女別、地域別に見れば、とくに地方の学生、女子学生の数字はぐっと低くなるでしょう。

ウチの大学は、一応、地域では名門とされる大学で、地元での評価はそれなりに高く伝統もあるため、昔に比べてレベルが下がったといわれる今日でも、OB・OGの培ってきた実績により就職は決して悪くはありません。実際、昔から金融や商社など地元大手老舗企業や大手企業の支店の一般職、航空、テレビ局といった女子学生に人気がある業界への就職率も高いですし、地元の学校教員、公務員などにもソコソコ採用実績があります。

しかし、昨今の経済・社会情勢の変化によって、女子一般職の採用を契約社員や派遣社員など非正規雇用に切り替えたり、あるいは昨今、事業のグローバル展開を視野に入れ新卒採用枠の一部を外国人留学生にシフトさせるなどといった動きが加速化していることから、ここ数年だけでも、これまでウチの大学に来ていた銀行や損保、商社の学校推薦による採用枠も大幅に少なくなっております。そんなこともあり、この時期になってもまだ就職が決まっていない学生も、ちらほらと見受けられます。

ところが、少なくとも、自分の周囲にいる学生を中心にみてみると、就職が比較的早めに決まっている学生と、そうでない学生は、もちろんすべてがそうとは限りませんが、何となく共通する傾向が見受けられることに最近気がつきました。

就職が早めに内定していたり、複数の企業から内定をもらっている学生は、まず①基礎学力が高い、②ゼミでもいい形で周囲をリードできる、③教員とのコミュニケーションの取り方が上手い。

反対に、就職がなかなか決まらない学生のタイプは、①提出物や課題の締め切りを守らない、②しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする、といった共通した傾向があります。

「基礎学力が高い」というのは、平たく言えば、主に高校レベルまでの基礎学力がどれだけ確実に身についているかということ。最近は、よく「分数ができない大学生」「漢字が書けない大学生」といったことがメディアでも大きく報じられるようになり、大学教育の場でも大きく話題になっています。幸い、ウチの大学はそこまではひどくありませんが、それでも基礎学力がしっかりしている学生とそうでない学生の差はけっこうあります。

それでは、基礎学力の程度はどのようにしておおよそ判断できるかといえば、一概には言えませんが、意外にも確実な目安となるのが出身高校の学力ランク。最近は、高偏差値の一流大学の学生でも、推薦入試やAO入試で入学する学生が増えていることもあり、基礎的な漢字が読めない、文章が書けない、計算ができない、といったケースが増えているといわれていることから、ここにきてあらためて入社試験に漢字テストや計算といった試験を導入する企業が増え、また大学生の新卒採用においても、出身大学名よりも出身高校名を重視する傾向が出てきていると聞きます。さらに一部の企業では、採用面接の際に、一般入試で大学に入学したのか、それとも推薦入試・AO入試の類で大学に入学したのか尋ねるケースも出始めているそうです。(このことは、これまで当該大学の学生の相対的なレベルや実力を判断するのに、事実上、社会的に最も確実な目安とされてきた「入試」が十分な選抜の機能を果たさなくなってきたということの現れのひとつであるといえるでしょう。)

一方、就職が決まる学生の「ゼミでもいい形で周囲をリードできる」「教員とのコミュニケーションの取り方が上手い」、決まらない学生の「提出物や課題の締め切りを守らず、しかもその原因に対していろいろ見え透いた言い訳をする」というのはもはや説明するまでもありません。

こうしてみると、社会や企業が求めている人材というのは、実は、基礎学力や一般常識をきちんと備え、かつ当たり前のことが当たり前のようにきちんとでき、その上で柔軟性に富み応用が利く人材であることが分かります。しかし、これら「当たり前」のことをきちんと備えた学生が、今日、相対的に減ってきていることが問題なのかもしれません。もちろん、それが理由のすべてとはいいませんが、大学生の就職率が低下し、企業が日本の大学新卒学生をなかなか採用したがらなくなってきたのも、こんなところにも理由の一端があるのかもしれません。

大学生の就職難は、単に目先の経済問題や若者の自己責任論だけにその理由を還元するのではなく、高等教育のあり方、あるいはもっといえば、それ以前の中学・高校における教育、家庭での教育や親の子供との向き合い方も含め、国民全体でもっと根本から議論していかなければならない問題であると思います。